私が健康法ではなく、好んで「養生」という言葉を使うのはそのためです。残り少ない時間、あるいは老いる肉体をどんなふうにいたわっていくか。老いを否定せず、受け入れるからこそ、養生という言葉が出てくるのです。
健康法は老いに対するアンチが基本ですが、養生はそうではありません。健康法が医学的、あるいは科学的な情報であるのに対して、養生は人生の知恵として生まれてくる。つまり、衰えていく肉体とどううまく折り合っていくか。こういう「老いの思想」が背景にあります。
思想と言っても、何も難しい話ではないし、その実はとても簡単なものです。たとえば、私は80代後半にさしかかったとき、左足がどうしようもなく痛くなって、とうとう戦後70年ぶりに歯医者以外の病院に行きました。「膝関節の変形性関節炎」という診断が出て、医師からは「変形性股関節症もありますね」と言われた。「加齢にともなう症状です」と。
肉体の衰えは、こういうふうに1つ1つ、歴然と物理的にあらわれてきます。
一目瞭然で肉体の衰えがわかる「数字」もあるでしょう。たとえば視力なら、昔1.5だったのが今は0.2とか、数字を見るだけで衰えがわかります。聴力の衰えは検査しなくても、テレビの音量の大小にあらわれるでしょう。
私の場合、昔のパスポートに書いてある身長と比べると、今は2センチぐらい縮んでいます。さらに、痛い左足をかばって右足を中心に歩いているものですから、足の長さが左右不均等になってしまった。マッサージをしてもらうと「ちょっと足が不ぞろいですね、左足のほうが1センチくらい短い」と言われたりします。
こういう具体的に出てくる肉体の衰えを、私は自然のリズム、自然の流れととらえています。だから、それに対して抵抗する気はありません。肉体の衰えを受け入れたうえで、できるだけスムーズに折り合って生きていこう、と思っているだけです。
たとえば、左足の不具合は杖をついてカバーしながら歩いています。それで、いかに合理的に杖をつくか、日々研究する。また左右の足の不均等については、靴のかかとの高さでカバーする人もいますが、私はよく穿いているズボンを全部直しに出して、左足のほうを1センチ短くしてカバーしようと工夫しています。
こうしたことが私の言う老いの思想と実践です。