「東京で住む家を決めて、関西のレギュラー番組も整理して、東京に本格進出しようと。あとは引っ越すだけやと思って準備してたら突然、『番組、終わります』って言われて(笑)。確かに、東京での視聴率は悪かったんですけど、『なんで?』って、思いましたよ」

 大チャンスとなるはずだった番組の終了後、東京の番組に呼ばれることもあったが、思うように成果を残せなかった。コンビそろって、他の出演者をかき分けて前へ出る性格ではなかったのが災いした。

「大阪では人気者でも、東京だと『こいつら誰?』な雰囲気で、二人とも怖気づいてしまって…。それでも、若手ですから身体も張りました。いちばん覚えてるのが、女子プロレスラーと対戦する企画。ジャガー横田さんはほんまに真剣な御方で、思いっきり背中を蹴られて息もできなくて、リアクションどころじゃなかった(笑)」

若手時代ジャリズム「ジャリズム」若手時代のワンショット 写真:本人提供

フジテレビの『ボキャブラ天国』には
「出れるものなら、出たかった」

 試行錯誤を続ける中、山下氏が「出れるものなら、出たかった」と語ったのが、当時、東京の若手芸人たちが絶大な人気を獲得することになる番組『ボキャブラ天国』(フジテレビ系列/1992年~1999年)だった。

「僕らはこの番組に出ていなかったので、『ダジャレを言う番組に出たくなかったんでしょう?』って聞かれるんですけど、出れるものなら出たかったですよ(笑)。営業先で一緒になったボキャブラに出てる芸人さんからギャラの話を聞くと、何倍も稼いでるし、営業先まで外車で来るし。会社の方針で出れなかっただけなので、残念でしたね」

 惜しまれながらコンビは1998年に解散。山下氏はピン芸人として活動するが、新たな若手芸人が次々と登場する中で、思うように売れない日々が続いたという。