名将として描かれた『信長公記』に
信長の残虐性を示す記述も

 日本の戦国時代にも、「まさかそこまでやるとは」、という人物がいた――織田信長。

 信長に攻撃された比叡山延暦寺に行けば、いまでも信長は暴虐の人であり、伊賀攻めや長島一向一揆への苛烈な攻撃を見ても、それは異様なものであった。
 
 信長の右筆・太田牛一の書いた『信長公記』は信長を名将として描いているが、所々に「目をおおうばかり」的な記述があることからも、信長の所業は当時の常識を外れていたことが察せられる。

 むろん常識を超越したからこそ、天下統一という大事業を半ばまで仕上げたとも言えるが、結果が正しければ手法は正当化されるのかというと、今も昔もそうはならない。

 信長の常識外れな手法や急成長に脅威を感じた大名たちは、「小が連合することで大を壊滅させる」という、反信長勢力による「信長包囲網」を構築することになるのである。

 信長包囲網は大きく3回行なわれているが、本稿では特に信長が巨大勢力となっていた時期の第2次包囲網を考察する。

 第2次信長包囲網は、元亀3(1572)年に起きた。その首魁は、信長によって擁立された室町幕府15代将軍・足利義昭である。義昭は将軍就任後、信長からどんどん権限を奪われて、信長への反感を募らせていた。

 義昭は全国の大名を煽り、信長の進出を快く思わない諸大名は次々に参戦していく。

 信長包囲網を、空から眺めてみる。まず信長の勢力圏。尾張・美濃・三河・遠江・伊勢・近江・京など、だいたい現在の岐阜県をおへそにして日本列島の真ん中あたりに広がる巨大勢力圏である。

 信長包囲網はこれを囲むように、北越の上杉、越前の朝倉、北近江の浅井、近江の六角、京阪・阿波の三好、大和の松永、甲斐・信濃・上野・駿河の武田。さらに伊勢長島の一向宗や本願寺といった寺社勢力までもが、信長殲滅で一致した。ちょうど、卵の黄身を囲む卵白のような形である。