「目標」「具体的手段」「目標達成後」の共有
これがなければ続かない

 信長包囲網の失敗から学べる点はなにか。

 第1に、束になれば強い。個別に攻撃されれば弱い、ということ。信長の側から見ればわかりやすい。反信長勢力は各々の地域において有力者ではあったが、全国規模の大勢力ではない。信長にしてみれば各個撃破することで制圧できる。

 だからこそ、何があっても強大な敵に各個撃破のチャンスを与えてはならない。

 ちなみにトランプが関税について各国個別に交渉するのは、多数を相手にする際のセオリーに合致している。彼はまさに“各個撃破”しているのである。

 第2に、包囲網の中心勢力は強力である必要がある。もし信長包囲網を成功させる手立てがあったとすれば、それは武田信玄の西上完遂であった。

 なぜそうなのかと言えば、信玄は巧みな統帥と精強な軍、そして甲斐、信濃、上野、駿河という膨大な領土を持ち、信長との決戦勢力として期待できる存在であったからである。

 つまり、信長と同じように他の大名を圧倒する力を持てば、信長に正面から対抗できた。のちに徳川家康はこの方法をとっている。信長が没して豊臣秀吉が中央で勢力を拡大している時期、家康は旧織田領を中心に東海から中部、北関東に領土を拡大。結果的にこのことが、秀吉に対抗する勢力を維持することにつながる。

 現代の日本が軍事的に他国を勢力圏内に収めるなどあり得ないが、防衛や経済を含めて、自国の力をつけておくというのは、こういう意味もあるのである。

 第3に、意図の共有。「目標」と「具体的手段」、「目標達成後」を共有する。これがなければ包囲網は続かない。

 信長包囲網は「信長を潰す」という目標は共通であっても、その手段が明確ではなかった。もとより、現代のように通信手段が発達していない中で、各々の大名が常に現状を報告し合いながら戦えるわけはない。だから、朝倉義景の撤兵や武田信玄没後の包囲体制を整えることができなかった。

 さらに言えば、包囲勢の目標に「信長後」が含まれていない。仮に信長を斃(たお)したところで、武田信玄が信長と入れ替わるだけでは皆納得できないであろう。