江橋は戦後学園に戻り、やがて東大教授や鹿屋体育大学の初代学長など、戦後の日本の体育学の確立者としての役割を果たしてきた。その間、例えば大学内部でもあからさまに批判するグループもあったという。江橋は沈黙を守ることで、自らの心中を吐露することはなかった。
生きて帰ってきた江橋が証言
「答辞は自分で書いていない」
私は、江橋の証言を正確に残すのはやはり昭和史検証の重要な鍵になると考えてきた。
江橋が全ての公職から離れ、湘南のある町で老後をゆっくりと休めている時期、私は4時間の取材時間をもらった。平成25(2013)年の秋であった。意外な話も聞かされた。
このとき、江橋は93歳になっていたが、体の動きなどは全く年齢を感じさせなかった。
まず、どうして出陣学徒の代表に選ばれたのか、江橋はこのように答えた。
東京帝大には運動会という運動部のまとまった組織があったそうだ。その中に総務という名の学生代表で組織する小委員会があった。この小委員会代表がこの年は文学部にあたっていて、江橋は出陣学徒の代表を命じられたという。また、次のような理由も挙げている。
「文学部の代表が運動部全体の代表になる時代だったことの他に、当時私は5尺7寸ほど身長があった。まあ173センチということになるんだが、学生として押し出しもいい、というんです。私は水泳部の選手ではあったけれどそれほどの選手じゃないから、マネジャーのようなこともやらされていた。そんなわけで学生主事や教授連中から、あいつが代表でいいということになったわけです」
以下、私の取材メモには次のようなやりとりが残っている。
保阪「ではあの答辞の文章も、江橋さんが作ったんですか。内容の上では、よく時代背景が出ていると思う半面、空虚な文字空間を作り上げているなあという感じもしますね」
江橋「あの文章ですが、私にはとても書けませんね。初めは、おまえ自分で書け、というわけです。こちらは運動部で、そんな文章なんか書けない。正直いうと仕方ないから、味も素っ気もない文章を書いて持って行った。学生主事や教官の委員会の国文学の先生の所にね。そうしたらいろいろ添削されて、ああいう内容になったわけです」