保阪「たまたま選ばれて、儀式の主役のような役割をさせられたわけですね。ただ東條首相や岡部文相などの空虚な挨拶に比べると、やはり漢文調であるとはいえ、その空虚さそのものを読むように命じられた江橋さんの答辞は、歴史的には読んだ人の責任ではなく、時代そのものが責任を負うと考えるべきでしょうね」

 私の感想に、江橋は黙していたが、ゆっくりとうなずいた。江橋が戦後、現役を退いて余生を送る段階まで沈黙を守ったのは、戦後社会の一角に江橋の答辞を批判する空気があることを知っていたからだと理解した。

事実無根で誹謗中傷される
苦しみを味わうことに

 平成5(1993)年は出陣学徒壮行会から50年を経た年だが、このとき江橋は朝日新聞の「語り継ぐ学徒出陣50年」という連載記事の中で、取材には応じられないと言い、「私は貝になりたい、の心境です」と語っていた。私はその心理がよくわかった。ちなみに「私は貝になりたい」は、実話をもとにしたテレビドラマの題名である(1958年。橋本忍・脚本、岡本愛彦・演出)。上官の命令で捕虜を殺害した兵士がB級戦犯として死刑を執行される。その市井の男が、最期に絞り出すように漏らした言葉が、このタイトルになっている。つまりは、人間をやめて海の底でじっと暮らしたいとの心境だというのだ。

 しかし、江橋のこの証言(新聞社に発したコメント)について、東大教授だったYが、その後各種の原稿で批判を加えた。Yは戦没学生の手記を集めて刊行した、わだつみ会(編集部注/日本戦没学生記念会の略称。戦没学徒兵の遺稿集『きけ わだつみのこえ』の刊行をきっかけとして1950年4月22日に結成された日本の反戦運動団体)などの事務局長を務め、こうした関係の運動の有力な指導者でもあった。そのYが刊行した「学徒出陣五十年」という書の中で「宣誓学生のその後」として、江橋の名は挙げずに「宣誓学生」という言い方で強い調子の批判を行っている。

 ただ、そこで記述されている事実なるものは虚構であった。例えば次のような一節がある。