当時の大学教育、高等専門教育を受けている学生は、同年代の男性のうちの約3%であったという。50人に1人か2人たらずという割合になるのだから、教育を受けた者は温存する制度があったわけだが、兵士不足の軍部はそういう学生たちにも動員をかけなければならなくなったのだ。

「生還を期せず」の答辞に
生還したではないかと理不尽な批判

 東條英機首相と岡部長景大臣(編集部注/東條内閣の文部大臣)の挨拶に続いて、学生側を代表して慶応義塾大学医学部学生の奥井津二が「壮行の辞」を述べた。見送りの学生たちを代表しての言葉であった。

 当時の東京朝日新聞からの引用になるのだが、その内容は、学徒が戦場に赴くときの心情を思うと胸が躍ると言ったあとに、「されば諸兄の心を心として、学問の研鑽(けんさん)を続けると共に、心身の鍛錬に努むることを誓ひます。どうぞ諸兄、元気で征って下さい」と締めくくっている。その言葉の端々には、再び学園で会おうとの思いが込められているようにも思えるのであった。

 最後に答辞を述べたのは東京帝大文学部学生の江橋慎四郎であった。

 当時の新聞などでは「角帽の下に光る眼鏡も痛々しいほどの学徒」ということになるのだが、江橋は奉書紙に書かれた文語調の答辞を読み上げた。強い風雨がその奉書紙を揺らした。江橋は答辞で戦局が熾烈(しれつ)な状態に入っていることを告げた上で、次のような一節を淡々と読み上げた。

「生等今や見敵必殺の銃剣を提げ、積年忍苦の精進研鑽を挙げて悉くこの光栄ある重任に捧げ、挺身(ていしん)を以て頑敵を撃滅せん。生等もとより生還を期せず。在学学徒諸兄、亦遠からずして生等に続き、出陣の上は、屍を乗越え乗越え邁往敢闘、以て大東亜戦争を完遂し、上宸襟を安んじ奉り(以下略)」

 江橋の答辞の中のこの一節は、戦後にあってもよく引用されている。特に「生等もとより生還を期せず」は、さまざまな視点から各様の論じ方をされてきた。江橋は答辞を読んだというのに生還したではないかとか、この内容について責任があるといった類いの批判もされた。「この学生は即日帰還の扱いを受けて生き延びた」と、戦後になって間違った論難までされた。しかし、江橋自身はそういう批判などに一切答えず、沈黙を守り通した。