そういう折に、富山県魚津町の漁民の妻女が、港から米が積み出されるのに憤慨し、その積み出し作業に抗議して、体を張って作業を中止させようとした。当初は100人ほどの女性たちであったというのだ。この動きに刺激されて、「我々にも米を食わせろ」の声が周辺の人々の間に広がっていった。これが、いわゆる米騒動の広がりに拍車をかけることになっていった。
8月に入ると近隣の町村のほとんどで、富山の米を外に持ち出すのを禁止せよ、米の価格を引き下げろ、というスローガンの下、米穀商を襲ったり、買い占めなどで利益を上げている資産家をつるし上げたりしている。
全国に広がった米騒動に慌て
政府は軍隊を鎮圧に送り出した
こうした県内の動きは、「越中女一揆」として全国的に報じられた。この報道に米の高騰に苦しんでいた庶民は言うに及ばず、都市の労働者からその妻まで米穀商の売り惜しみなどへの反発が広がった。「8月8日の岡山県を皮切りに、翌9日には大阪、和歌山、兵庫、香川、愛媛と広がり、8月9日~17日にかけて、米騒動は頂点に達する」(『明治・大正・昭和事件 犯罪大事典』)という状態になった。
この騒動は大阪、京都、そして最終的には東京にまで波及したのであった。8月半ばの統計では、18市、40町、30村の計88の市町村に騒動は拡大していった。所によっては万に近い数の労働者、女性、さらには都市の勤労階層にまで、その怒りは増幅していた。
軍隊が鎮圧に乗り出したが、それでも運動はさまざまな形で広がり、日本社会の底流には爆発的なエネルギーが秘められていることが明らかになった。
社会学的な考察になるのだが、この米騒動は実は単に、「米をよこせ」という運動とも言えなかった。そのデモの激しさ、さらには都市住民が積極的に参加したのを見ると、革命の前哨戦のような響きも伴っていたのだ、当然ながら寺内正毅内閣はふるえあがった。
各地の米騒動は、10月まで続いたということになるが、最終的には4県(青森、岩手、秋田、沖縄)を除いて全国に広がった。