総理殺しの背景は
明かされないまま

保阪正康 著
鉄道員である中岡が勤めていた東京の大塚駅の上役は、橋本という助役だった。この橋本は安田善次郎の殺害(編集部注/1921年、安田財閥創始者の安田善次郎が、自宅で朝日平吾に刺殺された。朝日は元新聞記者で、社会主義思想に傾倒し、巨富を持つ安田への嫉妬から犯行に及んだとされる)が起きた約75日前、「おまえなんか度胸がないから何もできないだろう」と言って中岡を挑発している。それで中岡が「何を言っているか!」となって、原敬を狙ったという説がある。この橋本がどういう人物だったかは裁判からも明らかにされていないが、どこかの右翼結社にいたとも言われている。中岡はこの橋本の示唆によって、原敬を暗殺したとも考えられているわけである。
中岡は無期懲役の判決を下されて入獄しているが、昭和に入ってから恩赦や大赦を受けて、釈放されている。すると中岡は満州に行き、ここから彼の消息が全くわからなくなる。「甘粕のルートに入った」からだ、ともいわれている。甘粕正彦はアナキストの大杉栄殺害(編集部注/大杉栄の無政府主義を危険視していた軍は、関東大震災のどさくさを利用して殺害。これを直接指揮したのが、当時憲兵大佐だった甘粕)で責任をとった軍人で、その後、満州に行き、映画会社を経営するなど満州の黒幕的存在となっていた。
実際に中岡の痕跡は全く見えてこないのだが、ただ、中国名を名乗っていたことはわかっている。「○○(中国名)こと中岡艮一君結婚」という小さな記事が、昭和12(1937)年ごろの「満州日日新聞」に出ている。中国人になっていて、結婚相手も中国人だ。
私もかなり追ったのだが、その後の消息はわからなかった。日本にひそかに帰って生きていたという話もある。つまり、18歳の青年がテロ事件を起こして牢に入り、20代の終わりからは、あるテリトリーの中に入り囲われたという人生だったのだと思える。その意味でいうと原敬暗殺は、18歳の少年の単純な犯行というわけではない。
実は司法の側にも問題がある。この裁判では妙なことに検察側などは早く片付けようとした。弁護側が深く調べていこうと質問しても、検察側と裁判官が進行を急いだのだ。原敬の暗殺は近代史の中で、今も謎だと言われている。