これは何を物語っているのだろうか。一言で言えば山縣は藩閥政治の終焉を自覚したということである。政党政治に口を挟まないとの覚悟は、自分の時代が終わり、原敬のような政党政治家、藩閥否定の時代を迎えたとの意味であった。むろんここには米騒動のような大衆デモの類いに対応しきれないとの認識もあっただろう。
「米騒動がつくり出した政党政治下に取り締まりをやや緩和した警察の態度と、国際連盟の成立に伴うILO(国際労働機関)の圧力を利用して、大正8(1919)年には急速に組合数が増加して争議数も飛躍的に増えた」(『歴代内閣・首相事典』鳥海靖編)。
直接、間接の見方は分かれるにしても、このようなことにもなったのだ。しかも日本社会が近代的システムをもとにして動き出している。
例えば大正10年代後期になれば、会社員などの新中間層が膨大な数になり、新宿、渋谷などのターミナル文化が活力を持つようになり、都市文化が発達していくのである。「モボ・モガ」(編集部注/モダンボーイ、モダンガールの略語。西洋文化の影響を受けた、先端的な若い男女)なども誕生して退嬰の彩りも添えられていくのであった。
平民宰相と慕われた
原敬はなぜ刺殺された
大正10(1921)年、10月19日、中岡艮一はなぜ、原敬を討ったのだろうか。
動機については今もいろんな説がある。議会政治の守護者として評価されている原だが、彼に苛立つグループは3つに分かれていた。
1つは軍部。原は政治的妥協の人で、憲政擁護、あるいは第1次世界大戦後の和平秩序に対して妥協的な態度を取る。しかし軍部は妥協的な態度ではなく、もっと世界的に権益を得るんだと苛立っていた。
もう1つは薩長。原は岩手県出身で、どちらかといえば賊軍。賊軍側ゆえに、旧華族の称号を受けることなどを断っていた。逆に言えば政府の官軍・薩長閥への抵抗意識があり、それに対する薩長の苛立ちがあった。
さらにもう1つは原のカネの動かし方。原は政治家だから、自分のためではないがカネはばらまいた。しかし、このカネで動く政治に反発する人たちがいた。ただこれは主に政治家というよりも、自分もカネが欲しい政治家周辺の「政治ゴロ」と呼ばれる人たちだったようだ。
このような不満を持つ人たちの誰かが、中岡艮一を動かしたのではないかと考えられているのである。