容赦無く発砲する軍隊に
労働者側もダイナマイトで応戦
いわゆる大衆の大掛かりなデモとしては近代史の中でも初めてのことであった。恵まれた大企業の労働者も自主的にストを構えて連帯の意思を表していた。寺内内閣は軍隊、警察を使って弾圧に乗りだして対応したが、一部では銃撃戦もあったと言われているほどである。
九州の炭鉱地方では暴動に発展し、発砲する軍隊による死者が一説では50人に達したともいう。労働者側もダイナマイトで応戦するという事態にもなった。こうして見てくると、米騒動は語られている以上に、体制の屋台骨をぐらぐらと揺すったことになることがわかってくる。軍隊が10万人ほど出動したというが、近代史の上でそんな例は全くなかった。
大正10年代に入ると、日本社会は極端なまでの軍事に対して嫌悪感を持つ社会となるが、そこに至るまでにこの米騒動時の軍隊への発砲に対する怒りが内在していたと言ってもいいだろう。その怒りをおさえるために、軍事の側は昭和に入ると謀略、策略、そしてテロなどを用いて、国民を黙らせていった構図も見えてくる。
この米騒動による検挙者は2万5000人を超え、8000人以上が刑事処分となったとされる。厳罰主義はますます国民を怒らせていった。死刑の判決を受けた者もいる。
大正期のこの事件、事象は近代史の中で見落とせない史実なのである。
米騒動を収拾できない藩閥政治は
歴史的役割を終えた
軍人出身の寺内正毅首相は、このような事態に対応する術を全く持ち合わせていない。ひたすら武力弾圧を進めていった。その一方で新聞がこの米騒動を煽り立てるような記事を載せているとして、米騒動に関するニュースは掲載禁止を通告したが、各新聞社は独自に集会を開き、言論の自由や武力弾圧への抗議を申し合わせている。正直なところ政党の反応はかなり遅く、新聞がその代役を務めたともいえた。
結局、寺内内閣は事態に対応できず、加えて山縣有朋らの元老の同意を取り付けることもできずに、総辞職に至った。後任は西園寺公望が擬せられたが、その西園寺が「自分よりは政友会を率いる原敬がふさわしい」と申し出て、大正天皇は改めて原を呼び、大命降下を命じている。