非常に面白い形式だと思うが、私が見ていて特に驚いたのが、敗者の態度だ。日本で同じような番組を作った場合、脱落を言い渡された敗者は、その場で崩れ落ち、悲嘆に暮れ、悔しさに震えるだろう。
だが、Netflixの番組ではいずれも、敗者は満面の笑みで勝者を称え、ハグし、対戦相手の素晴らしさを強調してからその場を去っていった。
ねたみが習慣化すれば
成功から遠ざかるだけ
それが全て本心ではないと思うし、内心では審査員の見る目のなさに怒り狂っている人もいただろう。
重要なのは、社会的にどう振る舞うのがあるべき態度か、ということを彼ら全員がわきまえていることである。
思いの強さを示すために悲しみに暮れてもいい、といった規範ではなく、彼らは勝者を称えるのが当然だという共通の認識に基づいて振る舞っていた。これは大きな文化的な差だと思う。直接対決で負けた、世界で最も悔しいだろう敗者ですらそうなのである。SNSやニュースで成功者を目にした者がねたむなど、何をか言わんや、だ。
文化というのは良し悪しで判断できるものではない。だが、少なくとも特定の行動を強化する側面はあると思う。
アイデンティティは習慣や行動によって規定される。成功者をねたみ、ひどい場合には中傷するような行為は、自分を成功から遠ざけるだけである。
無論、思ってもないおべんちゃらを発信する必要はない。良くないと思っていることは良くないでいい。しかし、欠点探しを常態化させるのではなく、相手のいいところを見出すような習慣は、翻って自分のためになるだろう。
問題点を指摘するより
実際に解決する人が偉い
冷笑主義とも言われる昨今だが、そのような言葉が定着する前からも、批評家気取りの人間はたくさんいた。何か問題があったとして、その問題点をあげつらうことに一生懸命になっているタイプである。
世の中、理想的なものなどない。皆、完璧でないのはわかったうえで、制約条件の下で現実的な解を模索しているものだ。その中で一片の瑕疵を見つけ、正論のハンマーを騒がしく打ち鳴らすことに、なんの価値があるのだろうか。