一生懸命やるためにも
自己理解を高めよう

 私の思想の根本は、「斜に構えていると損をする」というものである。

 実際、一生懸命やっている人を馬鹿にしたり、悪口を言ったりする人は多い。自分が頑張るよりも、頑張っている誰かを悪く言うのは簡単で、楽である。

 にもかかわらず、攻撃していた相手が成功したり、周囲に評価されたりし始めると、それが許せず、怒り始める人もいる。「怒りは貧者の娯楽」という言葉もあるが、金銭的にというよりは、心が貧しい人の娯楽であると思う。

 究極、他人などどうでもいいではないか、と私は思う。誰かの成功をねたんだところで、自分の何かが良くなるわけではない。そのエネルギーを前に進む原動力にする方がよほどいい。

 第一、誰かをねたむのはその人を知っているからであって、自分の知らないところで知らない人たちに評価されている人をねたみはしないだろう。知らないのだからねたみようもない。たまたま知っている人だからといって負のエネルギーを向けることに、正当性などあるはずがない。

 観察すべきは他人ではなく、自分である。人から聞いた言葉で非常に印象的だったのが、「個性とは、世界の平均からの差分である」というものだ。あなたは世界の平均だろうか。そんなはずはない。だとすれば、その平均からのずれが、あなたの個性ということになる。

 そして、平均からのずれは、訓練によって大きくなることもあり、何かで卓越するにあたっては、粘り強い努力が必要不可欠である。

 だが、時間割引率が高くなりがちな今では、それがとても難しい。目の前に楽しい楽しい動画サイトがあるのに、未来のため、それを閉じて苦行に打ち込むことなどできるだろうか。

 一方で、世の中には、「他人にとっての苦行が楽しくて仕方ない人」というのも存在する。筋トレが楽しくて仕方ない人、絵を描くのが楽しくて仕方ない人、泳ぐのが好きで仕方ない人、プログラミングや小説を書くのが楽しくて仕方ない人、などがそうだ。

 そうした人たちは、他人が嫌々努力していることを、なんらの精神的負担なく、嬉々として行い平然としている。

 もし自分にとってそういうものが見つかり、かつそこに適性があるのならば、そうした道を極めるというのが、自分の夢につながっていくと思う。