使う言葉によって
教養格差が露呈する

 つまり、その人が使う言葉がどういうものかによって、教養格差が露呈してしまうのです。

 作家並みの表現力を持つ必要はありませんが、それでも「ヤバい」「すごい」だけでは伝わらない、なんらかの機微や良さをうまく伝えられる表現や語彙、観察眼は、意識しなければなかなか持てません。

 同世代の仲間と「マジでやばいよな」なんて言っていたはずが、いつの間にか周りはすっかり落ち着いた言葉遣いになっていて、自分だけが浮いてしまうということさえあり得るのです。

 年齢を重ねれば重ねるほど、教養格差は広がっていきます。

 人生のどこかの時点で、「自分はもういい大人だから、あまり恥ずかしい振る舞いや無知、無教養をさらすようなことがないように気を付けよう」と意識することで、気がついた人は中高年として品格ある言葉遣いや佇たたずまいになり、気づかない人はいつまでもそうしたものが身につかない、年甲斐のない状態となってしまいます。

 年齢を重ねるなら、相応の人生経験と同時に、思慮分別や教養を身につけておきたいものです。

子供の「体験格差」は
世代を超えた問題?

 近年、子供の教育に関しては「体験格差」が問題視され始めています。

 体験格差とは、子供のうちに親が旅行へ連れていったり、図書館通いや習い事を習慣づけたりするような環境があるかないかで、その後の進路にも大きな影響が出てしまうという問題です。

 裕福で余裕のある家庭の子供は、運動クラブや水泳教室、塾にも通うことができますが、貧困家庭やシングルマザー・シングルファーザーの家庭の場合には習い事の送り迎えができない、月謝が払えないなどで、子供のうちにできる体験が少ないというものです。

 あるいは休日に親子で出かける際に、科学博物館や国立博物館に行くのか、近所のショッピングモールのフードコートに行くのがやっとなのか。

 家で視聴するテレビやインターネット番組にしても、一緒に教養番組を見るのか、お笑い番組だけなのかでは、子供が体験から得る知識に差が出てきてしまうということです。

 これは、子供の将来的な可能性を育むうえでも大きな差になりかねません。大学のAO入試などで特別な体験から学んだことをアピールする際にも、やはり大きな差が生まれます。