面接で「留学しました」「海外のサマースクールに通いました」と話せるような成長エピソードがあると、実際に有利になることがあるからです。
しかも悪いことに、子供のうちにさまざまな体験をしてこなかった場合、自分が親になった時にも子供に多様な体験をさせたいという発想が働かず、あるいは体験をさせられるような環境にないことから、体験格差のある子供が再生産されてしまうという世代を超えた問題にもなっています。
体験や教養格差の理由は
お金の問題だけではない
こうした体験格差を防ごうと、子供が文化に触れられる機会を提供する団体なども出てきています。親が仕事で忙しく、情報を得る方法すら知らなければ、こうした取り組みに辿り着くことさえできません。
親は、子供にも教養ある人間に育ってほしいと願うものでしょう。そのものずばりの高学歴をと望む親もいますが、それ以前にある程度の常識や教養を身につけて、社会で通用する大人になってほしい、よりよく生きてほしいと望む人も多いのではないでしょうか。
そのためにできることはしてあげたいと考えても、生まれた家庭環境によって、体験や教養に格差が生じてしまう。
これは実は今に始まったことではなく、私が学生だった50年前から「東大合格者の家庭は高額所得者である」というようなことは指摘されていました。
それも、富裕層だから子供の教育にお金がかけられるというような教育費の問題ではなく、親の教育程度が高いために家に立派な本棚があり、子供のうちからそうしたものに触れる機会が多いということです。
あるいは家庭内でも知的な会話が交わされることで、子供の知性にいい影響が出る、結果として好奇心旺盛で、読書や勉強が好きになり、良い成績を取るためにいい学校に進学できる、というものでした。
しかし、「家庭環境が知性溢れるものでなかったからといって、子供が知的好奇心を育む機会に触れられないのは問題だ」という見方が出てきました。
「親ガチャ」という言葉も流行りました。これは「貧しい家庭に生まれたから、恵まれた環境に生まれた子供と差がついても仕方がない」ことを嘆く時にも使われる言葉です。
どこかあきらめのニュアンスを含みながらも本当にそれでいいのか、という社会に対する問題提起を含んでいるように思います。