涙の別れが教えてくれた「信念を貫く強さ」――西郷と大久保、2人の生き様から学ぶこと
仕事が遅い部下がいてイライラする」「不本意な異動を命じられた」「かつての部下が上司になってしまった」――経営者、管理職、チームリーダー、アルバイトのバイトリーダーまで、組織を動かす立場の人間は、悩みが尽きない……。そんなときこそ頭がいい人は、「歴史」に解決策を求める。【人】【モノ】【お金】【情報】【目標】【健康】とテーマ別で、歴史上の人物の言葉をベースに、わかりやすく現代ビジネスの諸問題を解決する話題の書『リーダーは日本史に学べ』(ダイヤモンド社)は、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康、伊達政宗、島津斉彬など、歴史上の人物26人の「成功と失敗の本質」を説く。「基本ストイックだが、酒だけはやめられなかった……」(上杉謙信)といったリアルな人間性にも迫りつつ、マネジメントに絶対活きる「歴史の教訓」を学ぶ。
※本稿は『リーダーは日本史に学べ』(ダイヤモンド社)より一部を抜粋・編集したものです。

【親友を超えて国家を選んだ男】大久保利通の決断力に学ぶ「本当のリーダーシップ」Photo: Adobe Stock
大久保利通(1830~78年)は、幕末から明治時代初期を生きた武士(薩摩藩士)、政治家薩摩藩の下級武士として生まれ、西郷隆盛とは住まいが近所であり、幼いころから親友だった。藩の下級役人を務めていたが、薩摩藩の実権を握る島津久光(1817~87年)に抜てきされ、薩摩藩が京都・江戸などで主導権を得られるように政治工作を進める。武力を背景に知藩事を解任して東京に移し、中央から県令を送り込んで人心を一新した革命的ともいうべき廃藩置県(1871年)を新政府高官として断行した後、アメリカ・ヨーロッパを巡る岩倉使節団(1871~73年)に参加。諸外国に対抗するためには、日本の国力を拡充することが重要と考え、帰国後に国内産業の振興などを目的とする「内務省」を設立。また、朝鮮との戦争につながりかねない「征韓論」を主張する盟友・西郷隆盛と対立(1873年)し、西郷は政府を去る。その後、内務省を拠点とした産業の振興や、各地で発生した士族(旧武士階級)の反乱の鎮圧に努める。西郷が士族に担ぎ上げられて起こした西南戦争(1877年)で激突するも鎮圧し、敗れた西郷は鹿児島・城山にて自刃する。幼いころからの盟友の死を乗り越えて、新国家建設に意欲を燃やしたが、西南戦争の翌年、東京・紀尾井町で石川県の士族に暗殺される。その死後、多額の借金を負ってまで、国に私財を投入していたことが明らかとなり、人々を驚かせる。

家族のように育った幼なじみ、大久保と西郷

大久保利通と西郷隆盛の関係は、幼いころからの親友、というより家族同然でした。そのことを感じさせるエピソードがあります。

大久保は若いころ、たいへん貧しい時期があったのですが、それは父・利世が薩摩藩内のお家騒動に巻き込まれて遠島(島流し)にされてしまい、また大久保自身も職を奪われたからでした。大久保家は収入源を失い、食事も満足にとれないくらいでした。

そんなとき、西郷の実家は大久保を温かく迎え入れ、食事をともにしていました。このような西郷家の温かい支えもあり、大久保は貧しい時期を乗り越えることができたのです。

幕末の動乱をともに駆け抜ける

このように深いつながりのある2人は、幕末の動乱を二人三脚で乗り越えました。

お互いの強みを活かし、大久保は京都や江戸で、朝廷や幕府・各藩に対する政治工作を担う一方、西郷はおもに軍事面を担い、初めは長州藩、後には江戸幕府との戦いで、薩摩藩を勝利に導きます。

このような2人の連携プレーが時代を大きく動かし、とうとう西郷は江戸城を無血開城(1868年)に導き、江戸時代を終わらせたのです。

明治維新後、交わらなくなる2つの道

しかし、明治時代になると、2人は別々の道を歩むこととなり、最後は袂を分かちます。大久保は、岩倉使節団として海外を見聞したこともあり、国力の整備が必要と考えました。

また、出身や身分を問わず、新しい時代へのアイデアをもった有能な人材を政府に採用し、産業を振興しようとします。

いまだに大きなコストがかかる士族を切り捨てることはやむを得ないと考え、士族の収入や特権を奪う政策も進めます。

士族を想う西郷と、国家を優先する大久保

一方の西郷は、新しい時代の変化は理解しつつも、あまりに激しい変化により置き去りにされる人たちに心を痛めていました。とくに、収入や特権を奪われた士族に対する想いは大きかったのです。

鎖国をしていた朝鮮に武力によって開国を迫る「征韓論」によって、士族に活躍の場を与えようとする西郷と、士族の特権を奪ってでも国力の整備を優先させる大久保の対立につながりました。

家族同然だった2人が、日本を二分するような対決を繰り広げることになってしまったのです。大久保はこの対決から逃げず、西郷と激突しました。

「なんのために明治を開いたのか」――大久保の覚悟

このとき、大久保は西郷の心情に配慮し、「征韓論」を実行して国が混乱したならば、なんのために西郷と二人三脚で幕府を倒し、明治という新しい時代を切り開いたのか、わからなくなると考えたのではないでしょうか。

政府の首脳の1人である岩倉具視(1825~83年)を自分の味方とするなど、大久保の政治工作の前に西郷は敗れ、鹿児島に戻っていきます。

西南戦争、そして別れのとき

大久保は西郷が士族たちに担がれないように、熊本・佐賀・山口など各地の士族の反乱を早期に鎮圧しましたが、その努力もむなしく、西郷は西南戦争を起こし、最後は鹿児島・城山にて自刃します。

その死を聞いた大久保は号泣しながら、「おはんの死とともに、新しか日本が生まれる。強い日本が」とつぶやいたとも伝えられています。

※本稿は『リーダーは日本史に学べ』(ダイヤモンド社)より一部を抜粋・編集したものです。