
天安門事件では、民主化を求めて集まった市民が暴徒化し、軍の装甲車に火炎瓶を投げつけた。中国共産党は、これをもって武力弾圧を正当化したが、その火炎瓶を投げたのは市民ではなかった可能性があるという。燃えた軍車両、現場に残された数々の矛盾、自作自演を疑わせる状況証拠。火炎瓶の出所を追うと、天安門事件の真相と、中国共産党の暗部が見えてきた。※本稿は、加藤青延『虚構の六四天安門事件 中国共産党の不都合な真実に迫る』(PHP研究所)の一部を抜粋・編集したものです。
天安門に現れた1000本の火炎瓶
市民にそんな準備ができるのか?
戒厳軍と戦うために学生たちが火炎瓶を準備している様子をまったく見たことがなかった。しかし、天安門事件の時に北京市内で「武闘派」(編集部注/天安門広場を制圧しようとする戒厳軍に立ち向かう、火炎瓶で武装した人々を指す)が使用した火炎瓶の数は、計り知れないほど多かった。
現場で目撃できた破壊車両の多くは黒焦げ状態で、ほとんどが火炎瓶攻撃を受けていた。武装した軍用車両と力で対抗するには、火炎瓶が最も有効な攻撃手段になったことがうかがえる。
事件から2カ月後の8月16日、戒厳部隊某連隊で政治委員だった李練上校(大佐に相当)が広東省の日刊紙『南方日報』で明らかにした数字によると、「暴徒」によって破壊された車両は、合わせて1000両あまりということだ。
単純に計算するわけにはいかないが、1両破壊するのに火炎瓶1本が最低限必要だとすれば、1000本以上の火炎瓶が使われていても不思議ではない。そのような多数の火炎瓶が、なぜ天安門事件の当日だけ大量に出現したのであろうか。
当時、いすゞ自動車の北京事務所長だった渡辺真純氏は、2020年に発行された『証言 天安門事件を目撃した日本人たち』(ミネルヴァ書房)のなかで次のように記している。