特に、軍用トラックについていえば、長春にある第一自動車工場が60年代から主力生産した「解放牌」、俗に「老解放」と呼ばれる大昔のものを原型としており、天安門事件当時でさえ何十年も前の世界に戻ってしまったかのような違和感を覚えた。
後日談になるが、天安門事件の半年後、筆者は北京市郊外の人民解放軍の某部隊を取材することができた。そこで目にしたのは、真新しい軍用トラックがずらりと並ぶ光景であった。

「ピカピカの新しいトラックですね。『老解放』はもうお役御免ですか?」
そう尋ねると、案内をしてくれた軍の関係者は、
「あれはとっくに廃棄処分になっています」と答えた。
つまり、天安門事件で焼失した軍用トラックの多くは、廃棄処分寸前か、すでに廃棄された車両であったようだ。戦車や装甲車は、当時まだ同じタイプのものが現役として使用されてはいたが、事件当時、通常走行中に奇妙なエンジン音を発したり、黒煙をもくもくと上げたりする整備不良と思しき車両も多く、最新鋭のものは見当たらなかった。
どうせ偽旗作戦で焼失させるのであれば、「不要のものから順番に」ということではなかったかと疑ってしまう。
逃げる時間はあったはずなのに
縦列駐車のまま燃えた軍事車両
当時は焼けただれた残骸の配置から見ても、「本当に暴徒の襲撃を受けた」とはとても思えないものが散見された。
昨今のウクライナ戦争で攻撃を受けた軍事車両の残骸を見てもわかることだが、ふつうは最初の攻撃を受けた段階で何らかの回避行動をするものと思われる。
天安門事件の時にも、広場近くの長安街では、確かに回避行動を行った焼失車両の残骸がてんでバラバラに散らばっていた。