傷ついても自己責任にされるのは
会社にとって都合がいいから
さて、誰にとってどんないいことがあるのか……で、まず思いつくのは、会社側です。
会社側が「傷ついた社員」を仮に見出したとしても、「個人的なこと」としておけるのは大変好都合だと考えます。
なぜならば、「どうこうする義理も責任もない」ということになるからです。会社組織の喫緊の課題として、効果の高いことを効率的に直ちに実行せねば!と、奔走する義務から逃れることができるではないですか。
またこれは、今、順風満帆の社員にとっても、誰が「職場で傷ついた」かどうかなんてのは、「個人的なこと」と思えたほうがすっきりして好都合です。
自分には関係のない、一部の人に起きていること、かわいそうに。そのくらいで目の前の自分の仕事に集中できたら、それがいいのでしょう。会社側、体制側(有力者側)にとって通りのよい論理なわけです。
ちなみに、「はじめに」で厚労省が働く人に向けて実施した調査結果の一部を提示しましたが、「強い不安~を感じている」と質問して8割以上の人がYESと回答する――この「強い(不安)」と自称するのはけっこうな状況だと思います。
わかりやすく組織の「業績」や「生産性」などで危機感を示されるでもなく、あくまで社員個人の話に見えること、かつその状況を数字で表されることもなければ、組織の課題として認識されようがありません。
この危機感を持ちにくい状況こそが実は後々、業績や生産性などといった重大な組織課題の萌芽になっているのですが。
能力主義が「傷つき」を
個人のせいにしてしまう
さてこの、「職場の傷つき」を「個人的なこと」と認識すること。つまり、組織側の直接的な因果は背負わず、個人でどうにかする・すべき……と問題設定していくこと。
これは何か大きな、より深いところで、社会的に暗黙のうちに合意された価値観があってはじめて成り立っているように私は思えるのですが、いかがでしょうか?それこそ、
――「能力主義」の存在です。
いよいよ出たな、能力主義という感じですが、これが「職場の傷つき」という概念が「組織の問題」と距離をとりつづけていられる、無関係なそぶりを貫き通せる所以であると考えているのです。