ちなみに「能力主義」ということば。ある程度聞き慣れたものかと思いますが、その意味をおさらいしておきましょう。
「能力主義」とは、この世の限りある資源(リソース)を納得性高く配分することで、安定的な社会統治を可能にするための原理原則です。たとえば同じ「主義」でも身分主義と言えば、生まれ(出自)によって、もらい(給与などの報酬・取り分)が決まる社会でした。本人がどうすることもできません。どうあがいても、いかなる人物であっても、農民の子は農民へ、武士の子は武士になった時代の話です。
それから身分制が廃止され……家柄で決めることができたものが決められなくなりました。では、何を分け合いの原理・論理にすえるとよさそうか。
そこで体制側が目をつけたのが、個人の「能力」をもとに――ある人の「できる・できない」をもとに「取り分」を決める、という能力主義でした。
平たく言えば、できる人はもらいが多く、できない人はもらいが少なくてもやむを得ない、そういう社会のコンセンサスがある状態です。
「能力がある人は傷つかない」という
社会に染みついた誤った常識
その能力主義とは何かをおさえたうえで、「職場の傷つき」について組織側が直接的な因果を背負わず、個人でどうにかする・すべき……と問題設定していくことに話を戻します。私は次のように考えています。
能力主義こそが、職場で本来はびこっている「傷つく」という事象がなぜか語られず、「ハラスメント」やおとなしい社員の「訴訟」、集団で不正行為に加担するなど、行き過ぎた事象として問題が表出するまで、日々の営みにおける個人個人の感情、特に負の感情には目が行き届かない状況を作り上げている――と。
なぜか。能力主義が浸透した社会における「職場の傷つき」とは、ある状況を自身の思う通りには統制しかねた際に負う心理的負荷、などとも言い換えられるからです。思い通りに統制、制御できるのであれば、「傷つく」とは言えない。