自分はあれをやった、これをやった、その結果、組織にこうこうこういう点で貢献した、と(けっこう無理をしながらも)、期末の目標管理シートに業務の振り返りをしている方も多いのではないでしょうか。
そんな場で、わざわざ、「うまくいかなくて傷つきました」「誤解されているようで傷ついています」なんて自身の評価を下げるような真似をするような人は……いませんよね。
これが能力論、能力主義に支配された職場において、そうぬけぬけと「傷ついた」などいう告白、内省がされない背景の最たるものと私は考えています。
あなたが弱いんじゃない
悪いのは職場の空気だ
そうこうして自分を悪評から守ると同時に、傷ついていそうな他者に対しては、こんなことすら口にしてしまうかもしれないからたちが悪い。身に覚えがないでしょうか?

「まぁでも仕事ができないダメな人だから……しょうがないよね」
「あれで心が折れるなんて、弱すぎ」
「仕事なのに、つらいとか言って、プロと呼べないよね」
組織の問題になる前に、ないしは、個人が加害者/被害者と完全に分かれて逸脱や戦線離脱をする前に、「傷つき」はしかと職場に存在しています。
なのに、「傷つき」に限界がきて離職が相次いだり、傷ついた側がメンタル不調の「診断書」のような限界の証明を出してはじめて、向き合うことが許可されるかの様相が「職場の傷つき」にはあると考えるのです。
そしてこの認識が裏を返せば、「『傷つく』人はそれなりの理由がある……」といった「傷つき」の正当化や、口封じ(そんなことを異議申し立てる権利はあなたにない)をもたらしているのではないでしょうか。