「傷ついた」のは、コントロール〈できなかった〉つまり、能力・資質・適性の問題で起きてしまっていること、と言えなくないのです。

 この「出来・不出来」のところは、非常に重要な論点です。

 こう捉えると、どうしたって、「傷つき」を避けることが〈できる〉人と〈できない〉人の存在が懸案になるからです。

 差を見つけると、「この差はなぜだろうか?何が違いを生むのだろうか?」と考えるのが人の性でしょう。あらゆることに、因果があると思う私たちですから。

 そこで白羽の矢が立つのが、「傷つき」を避けられる・避けられないのは、「能力・資質の差」から起きたとする考え方なわけです。もっと言えば、「職場で傷つく」なんて感覚は、組織の問題ではなく、個人的なこと。それも、

〈できる人〉なら傷つかない。傷ついた、とか泣き言をいうのは〈できない人〉。

 などと、私たちにまことしやかに突きつけてくるのです。

告発すると出世できない
そんな空気が口を塞いでしまう

 こうした人間観、能力観があってはなかなか、「職場の傷つき」を口外しようと思わないのではないでしょうか。自分自身すらも「傷ついている」と認めないように努めてしまうかもしれません。

 なにせ、「できる人はもらいが多い」――この能力主義の大原則を前提に掲げる職場において、「うまくいきませんでした」「想定外でした」「だから傷つきました」なんて……うかつなこと、まぬけな自己評価であると、他人の目に映ります。なにせ、私たちの取り分を決める「能力」の高低は、わかりやすく〈できる〉ことをアピールする必要がありますから。それが「傷つき」が立たされている世界線なのです。