そう漏らすと意外にも伯父は「そうか、しかたがない」とあっさり受け入れます。どこまでもいい意味で自由放任な伯父でした。もしかしたら、この時点では2歳年下で成績優秀な弟の千尋に賭けていたのかもしれません。

 やなせたかしは美術学校を受験しました。現在の東京藝術大学の前身である東京美術学校の師範科、現在の京都工芸繊維大学の前身である京都高等工芸学校、そして東京高等工芸学校の3校でした。結局、東京高等工芸学校だけに合格し、上京します。

 1939年、東京高等工芸学校を卒業する前に、やなせたかしは日本橋の東京田辺製薬の宣伝部に就職することが決まっていました。が、卒業直前、やなせたかしにまた別れが訪れます。東京に送り出してくれた育ての親である伯父が急死したのです。

「チチキトク スグカエレ」

 電報を受け取ったものの、ちょうど卒業制作の真っ只中でした。ポスター制作を徹夜で終えて慌てて翌日の汽車で向かったものの、当時、東京から高知までは時間がかかりました。汽車をいくつも乗り継ぎ、四国に船で渡り、また汽車を乗り継ぎ、後免町の伯父の家にたどり着いたとき、すでに伯父は棺の中でした。

「兄貴遅い!」

 待ち構えていた弟に責められました。伯父はまだ50歳の若さでした。やなせ兄弟は、実の父に続き、育ての父も亡くしてしまったのです。亡骸を前に、2人は声をあげて泣きました。

 伯父が亡くなって、気づきました。養子になっていた弟にとってはもちろん、伯父こそがやなせたかしにとっての父親でした。本当は医者になってほしかったのに、医院を継いでほしかったのに、何の関係もないデザインの道に進むことを快く許してくれ、学費を負担してくれました。リベラルで教養豊かで優しい伯父は、しかしもういません。

 伯父を弔ったのち、やなせたかしは、東京に戻って田辺製薬のサラリーマンになりました。それから1年後。1941年に召集令状が届き、1943年に中国大陸に出兵、終戦から半年後の1946年3月まで、中国に留まりました。