この戦争経験が、戦後のやなせたかしの作品とりわけアンパンマンの作品世界の誕生に大きくかかわっていきます。
やなせたかしが戦場から帰ると
柳瀬家は悲しみに包まれていた
1946年3月、やなせたかしは復員船で上海から佐世保に戻ってきました。鉄道に乗り、原爆で焦土と化した広島を抜け、瀬戸内から船で四国へ渡り、土讃線で後免駅に到着しました。その足でかつて暮らしていた伯父の医院のあった柳瀬家へ向かいました。
「お母さんただいま」
何も知らせていなかったので、みんなびっくりしました。伯母が泣き崩れました。
「ちいちゃんは死んだぞね」
2歳年下の弟の千尋は、やなせたかしにとって、ずっと一番自慢の存在であり、同時に劣等感を抱かせる存在でもありました。その複雑な思いが、やなせたかしの詩集『やなせたかし おとうとものがたり』には記されています。
幼い頃は病弱でなぜか女の子の格好をさせられていた千尋ですが、父の死をきっかけに、子供のいなかった伯父夫婦の養子となり、将来は医者の道を嘱望されるようになります。中学にあがると千尋は背が伸び、柔道の腕をあげて二段をとり、学業優秀でその上眉目(びもく)秀麗。伯父と伯母を本当の両親と思い、すくすくと育っている千尋はしかし、兄のたかし同様、医者の道は目指しませんでした。
『慟哭の海峡』(門田隆将著 角川書店 2014)によれば、千尋は旧制高知県立城東中学校から旧制高知高校(現・高知大学)に進み、京都帝国大学法学部に進学します。
1943年に大学を卒業後、海軍への道を選び、三浦半島にあった武山海兵団に入団し、4ヵ月後には同じ三浦半島久里浜の海軍対潜学校でさらに4ヵ月学び、1944年5月には海軍少尉として任官し、駆逐艦「呉竹」へ乗船することになります。
当時、米国の潜水艦が次々と日本の輸送船を撃沈していました。駆逐艦の役目は、日本と南方とのロジスティクスを担う輸送船を護衛し、敵の潜水艦を索敵し、爆雷で撃沈することです。まさに海の戦争最前線に千尋は向かったのでした。そして1944年12月30日。「呉竹」は、台湾の南端とフィリピンのルソン島の間のバシー海峡を航行中、敵の潜水艦に撃沈されました。骨ひとつ残りませんでした。