「アンパンマンのやなせたかし」が「怪人ナメラー」を描いてた時代の「深刻な悩み」とは?Photo:SANKEI

『アンパンマン』の原作者として知られている漫画家・やなせたかし。中学生時代に漫画家志望を固め、30代前半にして絵で生計を立てるに至った。多くのクライアントから「困ったときのやなせさん」と重宝され、仕事が引きも切らない売れっ子として活躍していた、やなせ。だが、彼には、クリエイターとして深刻な悩みがあった。※本稿は、柳瀬博一『アンパンマンと日本人』(新潮社、新潮新書)の一部を抜粋・編集したものです。

高知新聞社での配属先が
やなせたかしの運命を変えた

 終戦後、弟の死に直面し、高知の故郷でしばらく虚脱状態だったやなせたかしですが、やはり働かねばなりません。かといって、仕事はない。

 アメリカ兵たちが捨てていったクズを集めて売り捌く“屑屋”稼業を始めました。そのうち、アメリカ兵のゴミの中に雑誌や書籍があるのに気づきます。ページを開いて驚きました。洗練された誌面。モダンなイラストやかつて自分が目指した漫画。眠っていた漫画家になりたい欲望が蘇りました。

 ちょうどそのとき、地元の高知新聞社が記者を募集していました。倍率は高かったのですが、やなせたかしは難関をくぐり抜け、1946年、高知新聞社に入社します。配属は社会部。当初は記者でした。

 入社後、すぐに高知新聞社は雑誌を創刊することになり、やなせたかしは雑誌編集部に配属されました。『月刊高知』(編集部注/1940年から1950年に出版された総合文化雑誌。高知の自然や文化、歴史のルポタージュや郷土ゆかりの小説などが掲載されていた)。スタッフは編集長を含めてたった4人です。