美濃部は議会でも弁明に立ったが、軍部や保守勢力が多数を占めるなかで無力だった。不敬罪で取り調べを受け、起訴猶予となったが、議員を辞職。著書『憲法撮要』など3冊は発禁処分となった。
当時の岡田啓介内閣は「研究に関する問題」と静観する姿勢だったが、内閣自身も度重なる追及を受けてやむなく、二度にわたる国体明徴声明を出して機関説を否定し、反対派の攻撃をかわした。しかしこの声明は、明治憲法に基づく立憲政治の否定であり、天皇絶対の国体思想を社会に強制することになった。
これ以後、「国体」が特別な言葉となり、「非国民」というレッテルで自由な言論が封殺されることになる。33年の京大滝川事件に次ぐ天皇機関説事件は、大学での言論封殺にとどまらず、日本が戦争体制へ本格的に進む分水嶺となった。
「言論弾圧の鬼」蓑田胸喜とは
どんな人物だったのか
この2つの事件の「仕掛け人」とも言えるのが、自ら創刊した月刊誌『原理日本』を足場に国粋主義運動をけん引した蓑田胸喜だ。菊池武夫に議会での美濃部糾弾を働きかけたのも、熊本出身の同郷で以前から交流があったからだ。
蓑田はかねて美濃部を「日本の学生に共産主義を広める不届き者」「無学、無信、無節操」と敵視していたが、菊池に働きかけ、議会での糾弾を仕掛けたのだ。蓑田胸喜とはどういう人物だったのか、そしてこの1人の人物がどうしてここまで大きな役割を演じることになったのか。