月刊誌『原理日本』を足場に国粋運動
滝川事件の伏線、京大講演での“立ち往生”
蓑田は日清戦争が起きる半年あまり前の1894年1月26日、現在の熊本県八代市で生まれた。家業は材木商を兼ねた旅館。兄と姉4人の末っ子だった。熊本県立八代中学に入学。通常は5年間だが6年かけて卒業した。
ある後輩は「中学3年までは鈍才で、それから猛勉強でトップに立った」と振り返っている。3年までに1年留年したようだ。しかし、4年と5年は首席の特待生で級長も務めた記録が残っている。蓑田が中学時代に印象に残っている思い出は、明治天皇の崩御だったという。
地元の第五高等学校に進むが、恩師は蓑田について「真っ黒で、短軀(低い身長)で、五高生らしくない五高生だった。いわば、村の青年といった風采をしていた。今日の彼を予想させていたものは、昂然とした態度で、思想的に潔癖だった」と地元の文芸誌に寄稿している。
蓑田は五高時代の文章に紀元節の2月11日について「今日は天壌無窮の大日本帝国の生まれた日であり、大日本国民が生まれた日である。偉大なる大日本我の誕生を祝福せしめよ」と書いている。国家主義的志向はあったようだ。
東京帝大時代に八代中学で講演をしたことがあるが、後輩は次のように振り返っている。
「昼からしゃべり通しで、尽きる気配がない。教頭が『時間がないから、このへんで』と言うと、蓑田は平然と『今までが序論で、これから本論に入ります』と言った」
熱血漢、激情家ぶりは生来の資質のようだ。