拙著『「能力」の生きづらさをほぐす』で述べ、人材開発業界に激震が走ったとか走っていないとか聞くのですが、能力研究(その代理指標としての学歴論)は教育社会学の貢献が絶大です。

 アカデミアのみならず、能力開発業界が労働社会にもしかと配備されているからこそ、ここまで能力が信奉される土壌をつくっていると私は考えています。よって、包括的な学歴論を点検するのであれば、能力研究についても俯瞰しておく必要があるでしょう。しばしお付き合いいただければと思います。

学歴もIQも高いはずなのに
アイツはなぜ仕事ができない?

「学歴ではなく、成功者は成功者独特で共通した言動パターンがありまっせ(意訳)」

 そう組織心理学の観点から実証した人が、この広い世界にはいます。ハーバード大学で組織心理学の教鞭を執っていた、デビッド・マクレランドです。コンピテンシー理論の興りとその商業化の波について、拙著を引用しながらコンパクトに説明しましょう。

「(1970年代)当時のアメリカも、学歴偏重のきらいがある社会。学歴やIQテストによって仕事が決まっていた。でも、外交を担う国務省がちょうどこんな人事の問題に直面していたところだったんだ。

『学歴やIQテストでしっかり選抜しているはずなのに、開発途上国に送り込まれた我が国の外交官が短期間で帰国せざるをえない精神状態になったり、一方で、平然と大活躍したりする。同じ“能力”の指標で選んでいるはずなのに、どうしてこんなにも差がついてしまうのか?』

 つまり、学歴やIQで選抜しても、シビアな任務が全うできるかを正確には予測できない。これまで測られていなかった別の『能力』が、実は仕事の出来・不出来を左右しているんじゃないか、と思われはじめていた」

――学歴や知力への懐疑が、仕事力を予見する「コンピテンシー」の機運を高めたというのです。名門校出身の高学歴な外交官を選りすぐったのに、さまざまな国際地域の任務に当たらせると、脱落者が続出したと言うんですから。「ガリ勉」と一口に言っても「激務をやり遂げるガリ勉と、そうでないガリ勉とがいるぞ」というわけです。