成功者にはある特定の
言動パターンがあった?
そこで国務省は、マクレランドとタッグを組んで、任務遂行を分かつ「能力」のあぶり出しに取りかかります。そして見出された成功者の言動パターンを「コンピテンシー」と呼んだのです。
学歴の高さで仕事のパフォーマンスを予見しようとしても外れるよ~。これからはその職務遂行に欠かせない「コンピテンシー」なる「能力」をその人がちゃんともってるか?これを測らないとダメだよ~と。ずいぶんと小気味よく感じられます。
その後、コンピテンシー理論の広がりはすさまじい勢いでした。私の古巣でもあるヘイグループは企業内に行動心理学の研究所であるマクレランドセンターをつくり、コンピテンシーの見極めテスト(アセスメントと呼ぶ)の開発や、求められる職務遂行力を向上させるための教育プログラム開発など、企業コンサルティングの傍ら、知見を溜めに溜めたのでした。
お気づきのとおり、コンピテンシーが仕事のパフォーマンスを高精度に本当に予見できるのだとしたら、学歴云々という話はもっと下火になっていてもいいはず……というのがミソです。
しかし現在において、たとえば日本の就活と呼ばれる主に大卒一括採用の就職戦線において、コンピテンシーよりも、圧倒的に学歴フィルターのほうが話題になります。どういうことなんでしょう。
それでも日本企業は
学歴にこだわり続けてしまう
学歴論争とはご存じのとおり、諸説あるわけですが、その玉石混交、有象無象の議論に共通している点をあえて抽出するならば、「成功の予見」という究極の人間の願望をかけた“聖戦”だと言えます。
聖戦とはただの争いではありません。各々が信じて疑わない「正義」をかけた戦いなのです。人びとは自分なりの哲学を披露してみたり、社会的にうまくいっている人はその立場から、要・不要論を展開しているようです。
人生は有限ですし、その限られた生を全うするためのリソースも有限です。回り道も大変結構なことですが、愉しんで生きるには、予測不可能性に耐え、人生の出来事に良し悪しを拙速につけることなく……という相当に達観した姿勢が求められることでしょう。