「どうせ誰からも愛されていない」
そこから承認欲求が暴走する

 現代の日本では「私は愛されているんだ」なんて言ったら「わ、ナルシスト」とか「なんて承認欲求の強い奴なんだ」なんて、あんまり良くは思われなかったりしますけれど、世界的には「私は愛されている」という自己認識はそれほど悪いものとしては扱われません。むしろ肯定されるべきものとされています。

 つい現代日本人は「承認欲求」というと、あまり良くないもののように思ってしまいますけれど、適切な承認欲求はむしろ健全なものですし、ヨハネの「私は愛されている」という自己認識は、「自分はちゃんと承認されている」ということの表れであり、そう単純に「ナルシスト」と割り切れるものではありません。

 SNSやWEB掲示板などに現れる不適切な承認欲求、行きすぎた承認欲求というのは「自分はちゃんと承認されていない」という不満への反動です。その不満から、いわゆる「迷惑系」などの不適切な行動を発信して世に承認されようという、歪んだ承認欲求が生まれてしまいます。その点、「自分はちゃんと愛されている、承認されている」と自認できている人は強いんです。

「自分は誰にも承認されていない」「誰にも愛されていない」と感じてしまっている方は世に多くいらっしゃるかと思います。キリスト教や聖書を信じていない方には「気休め」にすぎないかもしれませんが、そんな人をこそ、神様は、そしてイエス・キリストは承認し、愛しているのだというのが聖書やキリスト教のメインメッセージです。

「他の誰もが君を愛さなくても、私は君を愛しているぞ。君のためになら私の命も投げ出すぞ」と、これほどに強い愛のメッセージが他にあるでしょうか。そして本当に自らの身を十字架につけてしまうほどの愛が他にあるでしょうか。

イエスの死後も自分の生を
まっとうするヨハネを支えた愛

 ヨハネはイエスの十字架刑をまさにその十字架の真下で目撃した人です。ですから他の弟子よりも、特にこの「自分のために命を投げ出すまでの愛」を強く感じたのかもしれません。だからこそヨハネは、あえて自らを「主に愛された弟子」と、その愛を強調したのではないかと思います。