主イエスの十字架を自分のためのものと思うとき、現代を生きるクリスチャンでも一人一人が自分を「主に愛された弟子」と思わずにはいられないのではないでしょうか。ヨハネはナルシストだったのではなく、主イエスの愛を誰よりも強く感じた人だったんです。
だからきっとヨハネは、たとえそれによって自分がナルシストと思われたとしても気にしないことでしょう。誤解されて「残念な人」と思われても気にしないことでしょう。「そんなこと、勝手に思うなら思え。僕には僕の確固とした愛の記憶があるのだから。その愛に従って生きるだけだ」と、そんな気概を、後のヨハネの生涯から感じ取ることができます。

周りの人から「残念な人」と思われたくない、という気持ちは、多くの人が持っていると思います。でも、たとえ周りの人があなたを「残念な人」と言ったとしても、自分の中に確固たる信念があれば、「自分は承認されている、愛されている」という確信があれば、まったく構うことではありません。
そして間違いなく、あなたは愛されています。あとはその事実を受け止めて「愛されている、承認されている」と自分で宣言するだけです。
あなたはもう、その手に当たりの宝くじを持っているようなものです。あとはその賞金を受け取ればいいだけです。宝くじの賞金よりもよっぽど価値のある神様の愛が、あなたの目の前にあります。あとはそれを受け入れるだけです。
それさえ受け入れれば、人があなたを指差して「残念な人」と言おうとも「ナルシスト」と言おうとも、「私は愛されている」と堂々と生きることができるんです。