
「どうせ自分なんか…」と口にする若手に、何と声をかければいいのか迷うことはないだろうか。「愛されていない」「認められていない」と嘆き、満たされない承認欲求に悶えるのは若者あるあるだが、そんな彼らにはイエスの愛弟子ヨハネの生き方が参考になるだろう。※本稿は、MARO『聖書のなかの残念な人たち』(笠間書院)の一部を抜粋・編集したものです。
「イエスに愛された弟子」と
自分で書きまくっていたヨハネ
イエスの選んだ12人の使徒たちの多くは、最終的には信仰のために殉教しているのですが、1人だけ殉教せずに天寿をまっとうしたのがヨハネです。イエスに洗礼を授けた洗礼者ヨハネと区別するために、彼は使徒ヨハネと呼ばれたりします。また『ヨハネの福音書』の著者でもあるので、聖書記者ヨハネとも呼ばれます。
その『ヨハネの福音書』には、ところどころに「主に愛された弟子」とか「イエスが愛しておられた弟子」という人物が登場します。それほどまでにイエスが特別に愛した弟子とは誰なんだろう?なんて、それを初めて読むときには思いますが、実はこれは記者であるヨハネ自身のことです。自分で自分を「主に愛された弟子」と呼んでしまうなんて、なんというナルシスト!これまた残念な人だ。
……なんて思いたくもなってしまいますが、ヨハネはイエスが自分を愛してくれたことを、人一倍ありがたく、大切に思っていたのでしょう。近年のリベラルな解釈によれば、この福音書を実際に書いたのはヨハネ自身ではなくヨハネの弟子だったので、「自分の師匠は偉かったんだぞ」ということを強調するために、このように表記したのだという説明がなされることもあります。しかし、伝統的な解釈では、この福音書の著者はあくまでヨハネ自身ですから、やっぱり彼は自分で自分を「主に愛された弟子」と自認していたことになります。