
目の前の困難をなんとかしたい──多忙な現代人も口にしがちな願いだが、かつてローマ帝国の圧政下で苦しんでいたユダヤ庶民のそれは、命と尊厳をかけた切実な叫びだった。彼らの“今を救ってほしい”という願いに対し、イエス・キリストが示したのは、もっと根源的な“存在そのものの解放”。その応答に、私たちが生きる時代への深い示唆が宿っている。※本稿は、MARO『聖書のなかの残念な人たち』(笠間書院)の一部を抜粋・編集したものです。
救世主を待ちわびた
ユダヤ人の高揚と落胆
イエス・キリストという方は神です。少なくともキリスト教ではそう考えます。イエス・キリストを神ではないと言うのなら、それはいくら「キリスト教」を名乗っていてもキリスト教ではありません。
しかし一方でイエス・キリストは人間でもあります。人間と同じ肉体を持ち、人間と同じ苦しみを共有することで、神様が人間への愛を示してくださったということです。
と、いうわけでイエス・キリストは神でありますから、人間としてもパーフェクトです。残念な一面なんてあるわけがありません。だからといって、ここで「あまりに完璧な人間って、むしろ残念だったりするよね」なんて文脈を展開する気もありません。
しかし実は、イエスは完璧でありながら、当時のイスラエルの人たちには「残念だ!」と思われてしまった人でもありました。その「残念さ」から、最終的に十字架刑に処されてしまいました。
当時のイスラエルの人たちはローマ帝国の支配下にありましたが、「いつか僕たちをローマ帝国から解放してくれる救世主が現れる!」という期待を抱いていました。それが旧約聖書に示されていた約束だったからです。