日本で生まれ育った私には、「沈黙が何かを伝える意味を持つ」「何も言わない奥ゆかしさは金のごとく尊いときもある」もピンとくる。そうアメリカ人に伝えたら、「理解しようとしても、わからない」と言われてしまった。

「……」は、「何も考えていない」証になってしまうからだ。なぜ沈黙に価値があるのかわからないのだと。

世界標準のビジネス環境では
「言葉」にしないと伝わらない

 何も言わないことが「意味を持つ」のは、以心伝心、考えや価値観が似通った社会に住む人たちの論理だ。

 異文化コミュニケーションの先駆者で、文化人類学者のアメリカ人エドワード・ホールは、世界には言葉に重きを置く社会(ローコンテクスト=文脈の比重が低い)と、言葉以外の意味に重きを置く社会(ハイコンテクスト=文脈の比重が高い)があると説明する。

 北米や欧州は言葉に重きを置き、日本を含めアジア、中東、アフリカ、南米の多くは言葉以外の表現(表情、ジェスチャー、声音など)に重きを置く社会であり、世界標準のビジネス環境は前者にあたる。

 多様性のある世界標準の社会で、それぞれの「違い」に目を向けて、お互いに相手を知ろうとすれば、言葉を尽くす、話すことが必然だ。

 こうした社会で、「沈黙」したり「口数が少ない」のは、相手との違いを認め合い、対等な関係を築こうとしない、サービス精神のない人とみなされてしまう。

 グローバル化が進むなか、日本も個々の考え方が多様化している。「黙っていてもまわりが察してくれる」時代はとうに終わった。

 親しい人同士でも、聞いてみたら「そんなことを考えていたの?」と驚くことがあるだろう。

 頭の中にあることをうまく言葉にできなかったとしても、賛成か反対か結論だけでも先に伝える。それだけで目の前の相手を安心させられるのだ。「理由」はあとから話せばいい。

「何が言いたいの?」と
自分にツッコミながら話す

 前項で触れたとおり、世界標準のビジネス現場は議論やディベートの文化が色濃い。そこで求められるのは、「明快な結論」と「あなたらしい意見」だ。

 私も最初は「イエス」か「ノー」かをはっきり言えなかったり、反論されて何も言えずに困ったりしたが、この2つの要素を意識すると議論に参加できるようになった。

 ディベート、議論のためには「私は賛成だ」「私は反対だ」とまず立場をはっきりさせる。