しかし、実際には銃撃事件で旧統一教会の問題に注目が集まり、安倍のイメージは瞬時に被害者から加害者に切り替わり、その権威は失墜した。
それでも、もし銃撃犯が「反アベ」を唱える左翼だったとすればどうなっていただろうか。現在の政治状況はまったく違ったものになっていたかもしれない。
ここであえて危険な歴史のイフを持ち出したのは、民主主義の消費社会ではどんな個人崇拝が発生するのか考えてみたかったからだ。われわれは、独裁国家の個人崇拝は見慣れているものの、自分たちの社会のそれにはかならずしも免疫がない。
そこでヒントとなるのが台湾である。同地南部の港湾都市高雄では、事件直後の9月に安倍の銅像の除幕式が行われた。その後、自民党の安倍派幹部だった政治家や安倍昭恵夫人が訪問するなどして、“聖地”化が急速に進んでいる。
あったかもしれない世界線を想像するため、わたしも現地へと飛び立った。
中華民国旗、日章旗、旭日旗が
ひるがえる廟に安倍晋三はいた
安倍像が建てられたのは、高雄市の鳳山区にある廟(編集部注/死者を祀る宗教施設)である。名を紅毛港保安堂という。正確には道教の寺院(道観)であり、三国志の英雄関羽を祀る関帝廟と似たものと考えるとわかりやすい。
高速鉄道(台湾新幹線)の左営駅で下り、タクシー運転手に行き先を告げると、約20分で到着した。低層の建物が広がり、最寄り駅からも遠い典型的な郊外で、少なくとも観光客が押しかけるようなエリアではなかった。
だが、目的の廟がどれかはすぐにわかった。庭先に台湾の青天白日満地紅旗とともに、日の丸と旭日(きょくじつ)旗が南国の陽光を浴びながら堂々とひるがえっていたからだった。いかに親日とされる台湾でも、これは行きすぎではないか――。
その疑問は、歴史をたどると氷解した。そもそもこの保安堂は、日本海軍の第38号哨戒艇(旧駆逐艦「蓬」)とその戦没者を祀る廟であり、日本とのゆかりが深かったのだ。
パンフレットにはこう記されている。