だから、詩やスイカを作るとき、私たちは詩やスイカからいろいろなことを問いかけられます。趣味は、作り育てている「何か」から自己への問いかけを汲み取ることと不可分なのです。

 SNSなど支配的な評価や同質性を気にするコミュニケーションの中では、自分は単純化され、心の中に住まう他者が弱ったり、一色に染められたりしがちです。

 しかし、趣味において同調や評価から切り離され、孤独になることができます。そこでは、自己対話の条件である自己の複数性が育まれます。

 しかも、いろいろな他人との関係において成立する自分たちとは違って、モノとの関係において成立する自分です。

スイカという他者を作ることは
自分自身と対話するのと同じ

 さて、何かを作る/育てるという行為(=趣味)は、孤独をもたらしているという話でした。

 自分が手をかけ、ケアしているもの(例えばスイカ)は、一種の他者として立ち現れています。スイカとの関係の中で成立している自己、つまり、スイカを育てる中で立ち現れる自己は、それ以外の自分と違っているので、自分自身と話し合う余地が生じます。

 ここで気になるのは、スイカの他者性についてです。

 何かを作ることにじっくり取り組んだ人なら、すぐに実感してくれることと思いますが、確かに「何か」のほうが私に問いかけてくるような心地になることがあります。こちらが「何か」を見るだけでなく、「何か」のほうが自分を見ているような感覚です。

 アーティストや創作者が、筋のいいアイディアや表現を模索する過程では、関心のあるテーマやモチーフだけでなく、自分自身の特徴についての理解を深めていく必要があります。

 モノローグ(独り言)のように心の中で疑問をつぶやけば、自動的に理解の深化が達成されるわけではありません。それは、ため息のようなものにすぎず、考えているつもりになっているだけだからです。

 理解を深める上で私たちが向き合うべきは、作り育てているものの他者性です。

「何かを作る、何かを育てる」という趣味が有利なのは、「物(道具やモチーフそして作品そのもの)を介し」て、対話を持つことができるからです。