加持がスイカをほとんど収穫することなく、物語から退場しているという事実を言い添えれば、彼が他者を求めて、あるいは、何かの役に立てたくて〈趣味〉に勤しんでいるわけではないことが伝わるでしょうか。

 彼の〈趣味〉は、セルフブランディングとか、他者からの評判とは関係のないところにあります。

 何かを作り、育てるのは、SNSに投稿して「いいね」をもらうためでも、ココナラ(編集部注/知識・スキル・経験などを売り買いできるプラットフォーム)やminne(編集部注/こだわりの作品を購入・販売できる国内最大級のハンドメイドマーケット)などのウェブサービスで換金するためでもありません。ただそれ自体のためになされていることです。明日世界が滅ぶとか明日死ぬとかそういうことすら関係がないかのように、加持はスイカを育てていました。

趣味へ本当に没頭するなら
孤独でなくてはいけない

「何かを作る、何かを育てる」という趣味は、少なくとも孤立を必要条件としています。「みんなには内緒だけどな」と語っていることからも、加持の言う「趣味」が、他者から切り離された場所で営まれる行為だということは確かめられます。

 加持リョウジが「スイカ」を例に趣味について話していたので、スイカを念頭に置きながら、趣味と孤独の関係について掘り下げてみましょう。

 そもそも、何かを作ったり育てたりすることは、先の見えない作業です。スイカがどんなサイズや模様になるのか、どんな風に手をかければ大きくなるのか、あるいは枯れてしまうのか、そういう一切のことが、究極的にはコントロールしきれません。

 もちろん自分なりに手をかければ、それに応じてスイカが育つところもあるでしょうが、私たちの側が完全に主導権を握っているわけではありません。スイカは、私たちの計らいの外にあるものです。予測や想定、コントロールを超える部分が常にあります。

 このとき、作っている「何か」は、私たちにとって「他者」(謎)として立ち現れています。何かを作る、あるいは育てるとき、その対象は私たちと結びつきを持つものでありながら、私たちの外部にあるということです。