何しろ、祖父が京浜病院の病院長を務めた時代には、祖父の同僚だった東京大学医学部の教授たちが手弁当で手伝いに来てくれていたが、彼らは、「裕福なご家庭に往診したときには、1回10万円手渡されることがある」と話していたそうだ。
厚生労働省の「毎月勤労統計調査」によると、1950年のサラリーマンの平均月収は9244円で、月1万円に満たなかった時代だ。1940年代後半から50年代初め当時の10万円は、今の貨幣価値に換算すれば、100万円以上に相当するかもしれない。
戦後の復興期で経済が右肩上がりだったこともあって、自由に価格が設定でき裕福な人から多額の診療費が受け取れる自費診療は多くの医師にとって相当うまみがあった。
石橋湛山内閣の動きに
「医師会のドン」が猛反発
「1回の診療に10万円も払ってくれる患者もいるのに、全国一律の公定価格で診療するなんてふざけるな。そんなの共産主義のアカ野郎の考えだ」
1932年頃の旧日本医師会新聞に「国賊熊谷を倒せ」と書かれた祖父は、彼の4男で私の父に当たる熊谷賴明にその新聞を見せて悔しがり、涙を流したという。
それでも祖父は、戦後も皆保険制度導入運動を続けた。1950年には、医師向けの雑誌に、将来の国民皆保険制度の骨組みとなる「国民健康保険試案」と題した論考を投稿している。
1957年、石橋湛山内閣は、翌年度から国民皆保険制度の実現を目指し、市町村の国民健康保険(市町村国保)の普及を促す4カ年計画に着手すると発表した。
これに反発したのは、日本医師会会長だった武見太郎氏だ。
ご存じの方も多いと思うが、武見太郎氏は1957~82年まで四半世紀にわたって日本医師会会長を務めた医師会のドンで、厚生省(現・厚生労働省)の官僚ともたびたびやり合い、「ケンカ太郎」とも呼ばれた。
ちなみに、第2次岸田内閣で厚生労働大臣を務めた自民党の武見敬三氏は、武見太郎氏の三男だ。
国民皆保険制度導入直前の1961年2月、武見太郎会長が率いる日本医師会は、前年の夏に政府へ出した要望が通らなかったことを理由に、全国一斉休診ストライキを敢行し、日本医師会会員の保険医総辞退を通告している。