詩人P・B・シェリーの
破天荒な大学生活
英国の後期ロマン派を代表する詩人P・B・シェリー(1792~1822)は1810年にオクスフォード大学ユニヴァーシティ・コレッジに入学している。このコレッジはハイ・ストリート沿いにあって、広大な敷地を持つクライスト・チャーチと比べると幾分小さなコレッジである。
革命精神に満ちた若き日のシェリー(もっとも29歳で夭折したシェリーの生涯には「若き日」しかないが)は入学後1年足らずのうちに、「無神論の必要性」“The Necessity of Atheism”という小冊子を学友T・J・ホッグと2人で書いて配布したため(より正確に言えば、この小冊子を書いたことを認めなかったため)、ホッグ共々除籍処分になっている。
シェリーは短いオクスフォード在学期間のある日、ロンドンに出かけて帰りの馬車賃が足りなくなり、オクスフォードまで歩いて帰った。ロンドンからオクスフォードまでは55マイル(約90キロ)あり、この詩人はそれを12時間で踏破してコレッジの朝食に間に合ったらしいので、時速4.5マイル(7キロ強)で歩いたことになる。
ついでながら、ゴシック小説『フランケンシュタイン』(1818)の作者メアリー・シェリーはこの詩人の妻である。
街の至る所に
有名な作家・作品の気配が
トマス・ハーディ(1840~1928)の小説『日陰者ジュード』(1895)はケイト・ウィンズレット主演の映画『日蔭のふたり』の原作としても知られていて、この小説に登場する大学街クライストミンスターはオクスフォードをモデルにしている。
ウェセックスの小村で生まれ育ったジュードは、地元の養豚場の娘アラベラに押し切られて結婚するが破局に終わり、牧師になるべく大学入学を夢見てクライストミンスターへ行き、石工として貧しい生活を送る。この地で従妹スーと再会して恋に落ちるが、アラベラの存在を知ったスーは彼の許を去り、別な男(ジュードの恩師)と結婚することになる。
しかしながら恋愛感情を持たない夫との生活を嫌悪したスーは、ジュードの許に戻って同棲を始めてしまう。2人は当時の英国社会の倫理観からすればとんでもない「日陰者」ということになる。私の好きな女優の1人でもあるウィンズレットはこのスーの役を好演している。