彼は京都の大きな進学塾出身で、同じ塾の同じ教室から来た人間もたくさんおり、彼らの証言によれば「永森はとても某R校に受かるような成績ではなかった」ということだった。

 塾でもいつも下位をさまよっており、某R校の特進コースどころか一般コースも落ちるはずの成績だったらしいのだ。それが蓋を開けてみれば、塾の上位陣をブチ抜き大逆転をかまして特進コースに合格したので、みんな度肝を抜かれたという。

 そういう「一発逆転」のオーラが、彼からはつねに発せられていたのである。

人目を気にせずappleの綴りを
勉強できるのは只者ではない

 ある時、私は休み時間に必死でノートに何かを書きまくっている永森を見た。こいつ、何か東大文1を攻略する秘策でも持っているのか?そう思ってノートを覗き見た私は驚愕した。もう驚愕しすぎて、その時は本気で震えてしまった。

 なんと永森は、ノートに延々と「apple apple apple apple……」と書き続けていたのである。こいつはやっぱり本物のアホだ、と私はいったん思ったが、こんな東大京大狙いの猛者が揃った教室の中で、誰からも見える場所で堂々と「apple」の練習をすることは実は相当難しいということにすぐ気づいた。普通、恥ずかしくてそんなことはできない。だが、こいつにはそれができる……?

 最近『青のオーケストラ』というアニメを家族が見ているのだが、それを私も一緒にチョコチョコ見ている。その中で、まだあまりバイオリンのうまくない女の子がデカい音を出して練習しているところに神童っぽい主人公がやってきて、「お前には素質がある」みたいなことを言う回があった。

 大体要約すると、まだ下手な人間は恥ずかしがって大きな音が出せないものだが、お前は堂々と演奏している、それだけでもすごいことなのだ、というような話だったと思う。

 今思えば、私は永森の「apple」にそれに近い感覚をおぼえていた。いや、ほとんど恐怖と言ってもよかったかもしれない。