その時点では、私たちもさすがにコイツはもうないな、と思っていた。模試の成績を見ると、東大はもちろん関関同立も、回によっては産近甲龍もE判定で、いくらなんでもそこから数か月で追い上げに成功することはありえない。

センター試験で足切りのレベルでも
まだ東大の夢を諦めない

 しかしその頃、永森の実態を近くで見ていない隣のクラスの東大文1原理主義者・内山が、「永森はまだ東大文1と言ってるのか?」と私に探りを入れてきたことがあった。私はその時、やはり永森の大物感というのは驚異的なレベルに達しているな、と感心したのだった。

 結局、永森の東大の夢を打ち砕いたのはセンター試験だった。センターが5割ちょいとかだったので、普通に足切りを食らったのだ。

 私も大爆死したセンター試験だったが、さすがに足切りにかかるようなレベルの死に方ではなかった。みんな「ボーダー」が何点なのか、という話をしている中で、「足切り」という言葉を発していたのはおそらくクラスで永森1人だけだったと思う。

 結果として永森は浪人し、私も浪人することになった。永森は河合塾で私は駿台だったのだが、なぜかこの頃から私と永森は急速に仲良くなっていった。

 きっかけはよくわからない。永森は河合塾に入るにあたって国公立コースに入れてくれとオカンに頼み込んだが、オカンに「夢見んのもええかげんにせえ!」と怒られて私立文系コースにブチこまれていた。

 しかし永森はその頃、私と同じ京大法学部を狙うと決めていたので、河合塾の講義はほとんど受けず、自習室で自力で京大対策をしていた。しかし相変わらずE判定を連発するので、私は永森に何度も何度も「さすがに京大は無理やと思う」と諭したが、永森の目はやはりらんらんと輝いていた。

京大は無理だと説得しても
究極のポジティブには響かない

 第1回の京大模試が行われる頃、永森から私に連絡があった。「俺は駿台の京大実戦を受けるつもりだが、これを受けていることがオカンに知られるとまずいので、結果の送付先をお前の住所にしてもいいか?」ということだった。