模試のためのお金は小遣いを貯めてすでに用意してあるという。私はまあ、一度受けてみればあきらめもつくだろうと了承して住所を伝えた。その結果、やはり永森は圧倒的E判定を叩き出した。

その京大実戦は私史上最高の順位で、優秀成績者の冊子にも名前が載ったので、いい機会だと思い永森と解答用紙を並べて比較してみようと誘った。永森がどれだけヤバい点数を取っても全然あきらめないので、私も若干腹が立っていて、さすがに私の最高傑作の解答用紙を見せれば降参するだろうと思ったのだ。
しかし、永森は私の解答を見てもビクともせず、「お、数学の大問1は俺の勝ちやな」と言った。
京大文系数学は大問が5題、1題30点の150点満点だが、そのとき私は大問1で細かいミスをして25点、永森は満点の30点だった(そして、永森は他の問題で1点も取っておらず、合計点もそのまま30点だった)。
いや、この問題に関してはそうやけど、合否は総合点で……と私が言っても、永森は「大問1に熱中するあまり時間が足りなくなったが、スピードを上げれば十分いける」などと言い出す始末だった。
結局、再び永森の夢を打ち砕くことができたのはまたもセンター試験だった。永森は京大に思い切り足切りを食らい、京大界隈から強制退場させられてしまったのだ。
そう思うと、センター試験の足切りというのは将棋の奨励会の年齢制限みたいなもので(?)、残酷なようでいて優しく正しい道に戻してくれる制度でもあるのだ。
その後、永森は龍谷大学と同志社大学を受けたが、産近甲龍も基本D判定で、関関同立もほぼE判定という中で、かなり絶望的なチョイスだと私たちは思っていた。
だが、永森はやはり真の大物だった。その後、D判定を連発して絶望視されていた龍谷大学法学部を見事撃破したのだ。永森のサムアップ写メ付きのニュースはたちまち広がり、私たちを元気づけた。D判定からでも逆転できるという現実は、成績があまり伸びていなかった京大志望者を照らす希望の光となったのだ。そしてさらに驚くべきことが起きた。永森は私たち京大志望者による凶悪な妨害行為があったにもかかわらず、というかそもそもE判定しか取ったことがなかったにもかかわらず、同志社大学経済学部をマジで撃破したのである。このニュースは私たちを激しい熱狂の渦に巻き込んだ。
永森はこうして「大物」の名に恥じない大逆転を──当初の目標よりは低い位置でだが──華麗に決め、同志社大学経済学部に進学した。