ここで言う文化とは、決して民族的なものだけを指すわけではありません。社会階層や性別、教育水準、都会か田舎かなど、さまざまな属性によって文化は違っています。家族によっても文化は違います。

 そうした違いを無視して、自分の文化において健康で適切とされているものを無批判に健康で適切だと思い込んでしまうなら、その思い込みに基づいた「支援」は、異なった文化的背景を持つ相手にとっては「人格否定」と受け取られるものとなりえます。

 正義、保護、啓蒙、しつけ、解放、救済、支援、治療などを行おうとする者は、それが相手側からすれば、人格否定、人権侵害、搾取、洗脳、植民地化となっていないか、よくよく考慮する必要があります。

 どれだけ考慮しても、自分では判断がつかない可能性も大きいですから、相手の反応をよく観察し、相手の意見を真剣に聞くことが必要です。

怒っているときほど
相手の言い分に耳を傾ける

 激しく怒っているとき、人は自分に正義があると信じています。正義は、公正を実現しようとするものです。

 公正であるためには、あらゆる関係者の言い分を考慮する必要があります。自分の考えだけで判断するのは公正であるとは言えません。相手と自分との間のことであるならば、相手の言い分と自分の言い分とを公平に考慮して判断する必要があります。

 怒りながら、自分が正しいと信じながら、「何か言いたいことがあるなら言ってみろ」と相手を怖がらせるような問いかけをすれば、相手の言い分を十分に引き出すことはできません。

 つまり、激しい怒りに駆られた感情状態にあるうちは、正義は実現できないのです。相手が自分の考えを言葉にできるだけの安全感が必要です。

 そして相手の言い分に真摯に耳を傾けることができる心の状態が必要です。相手の言い分を相手の立場に立って考えることができる、お互いがそのような安全な関係性の中で言い分を言い合って、そして聞き合って、その上でそれぞれが最も合理的と思われる判断を下すことが必要なのです。