崎陽軒の「シウマイ娘」のほとんどは、「横浜の看板娘にふさわしい満18歳から20歳までの容姿たんれいなる女子」という新聞広告の求人に応募した女性たちであった。
つまり、「シウマイ娘」は中国服を着ていたが、華僑ではなく日本人であり、彼女たちは「横浜の看板娘」として、シュウマイを横浜の名物にするために大きな役割を果たしていた。

シュウマイは横浜のチャイナタウンにルーツがあったが、それが横浜名物になったのは、地元の実業家や文化人のアイデアと努力が、新聞や雑誌、小説や映画などによって日本全国で知られたからであった。

横浜のシュウマイは、中華料理を使って日本の地方名物が作り出された最初の例であり、のちに宇都宮市が餃子で町おこしをするときの目標になった。注目すべきことに、1950~60年代には、横浜のシュウマイのほかに、北海道のジンギスカンや、札幌のラーメンなどの中華料理が、日本の地方名物、そして郷土料理になっていった。