2002年5月のことだった。私たち夫婦の住む招待所(編集部注/拉致被害者や工作員を住まわせる施設)を訪ねてきた朝鮮労働党対外情報調査部担当副部長の「パク」は、日本側に私たちの存在を伝えることになるかもしれない、もし日本政府の人間に会うことになったら、「日本には帰りたくない、平壌で家族と再会したい」と言えるか、などと聞いた。
私は内心驚きながらも、「やれと言うなら、そうする」と答えた。
後日、担当指導員が来て、日本政府には、拉致ではない別の経緯で北朝鮮に入境したと通告することになったと伝えられ、その後は「遭難からの救出」というシナリオが準備されていく。
私たち2人が新潟県柏崎市の海岸から、置いてあった他人のモーターボートを拝借して沖合に出たところ、エンジントラブルを起こして漂流する。
私たちが暑さのなか意識を失っていると、通りがかりの北朝鮮の船が救助し、北朝鮮北部の港湾都市、清津の病院に運んでいく――というものだ。
そして北朝鮮の人たちの温情で命を拾った私たちは、自ら懇願して北朝鮮に暮らし始め、24年が経過したという結末になっていた。
「北」の公式見解は
なぜ二転三転したのか?
さすがにこれを信じる人はいないのではないかと言うと、通用するかどうかは関係ない、一度通告すれば終わりだと言われた。その後しばらく私たちは日本政府との面談に備え、この作り話を暗唱する日々が続いた。
この欺瞞作戦は、少なくとも私たちには小泉首相の訪朝時まで「有効」だった。
2002年9月末、日本政府から派遣されてきた事実調査チームと面会する直前になって初めて、この偽装話は取り下げられ、「拉致された事実を簡単に日本政府に伝えろ」という指示が新たに伝えられた。
いうまでもなく、金正日委員長自らが9月17日の日朝首脳会談で、北朝鮮による拉致を認めたこととの整合性を図るためだった。
北朝鮮当局内で具体的にいつ頃、入境経緯の説明を「救助」から「拉致」へと方針転換することにしたのかわからないが、下手な噓をついて日本側の反発を買い、国交正常化交渉を壊してしまっては元も子もないと判断したためではないかと思われる。