すでに日本では、北朝鮮による拉致を証明する根拠が数多く明らかにされていた。

 ただ北朝鮮当局は、拉致を認めるにしても、国や指導部に及ぶダメージを考慮せざるを得なかった。国連にも加入している一国家が、戦時でもない時期に、他国の一般市民を略取・誘拐するような、犯罪組織以上の行為に至ったのだから、日本だけでなく世界からの非難を免れられないのは自明だった。

最高指導部は本当に
関与していないのか?

 北朝鮮当局はダメージを最小限にするために、いくつかの策略を練った。

 その1つが、拉致を北朝鮮の国家や秘密工作機関の組織的行為ではなく、そのなかの個別の人物らによる「蛮行」であり、その首謀者はすでに処断したと日本側に伝えることだった。

 日朝首脳会談で金正日委員長は拉致について「特殊機関の一部が妄動主義、英雄主義に走って行なってきた」と述べ、その理由について「1つは特殊機関で日本語の学習ができるようにするため。もう1つは他人の身分を利用して、南(韓国)に入るため」だったと説明した。

 北朝鮮側からは日本人拉致の首謀者としてチャン・ボンリムらの名前が挙げられ、死刑に処したと告げられた。

 しかし、チャン・ボンリムは確かに日本人拉致を行なった対外情報調査部の元副部長ではあったが、拉致ではなく、韓国の情報機関とつながりをもったという罪で処断されたと当時、北朝鮮で聞いている。

 この捏造の最大の目的が、拉致を対外情報調査部幹部に直接指示した最高指導部の関与を否定することにあるのはいうまでもない。

拉致被害者を「死亡」と
発表した理由

 策略の2つ目は、日本政府に会わせることで、秘密が露呈したり、自分たちの拉致問題処理のシナリオに否定的な影響を与えうると判断したりした拉致被害者を、「死亡」「未入境」という形にして、表に出さなかったことだ。

 拉致被害者によっては、北朝鮮当局がこれまで自らの犯行と認めてこなかった過去のテロ事件などをクローズアップさせる可能性のある人もいるし、また北朝鮮当局の筋書きに沿った形での意思表明に応じない可能性のある人もいると、彼らは判断したのである。