それまでの大洋は一度もAクラスになったことがなく、昭和29年から6年連続最下位という超が付く弱小チームだった。三原就任の前年のチーム打率、防御率は、ともにリーグ最下位と戦力的にはどん底。しかし、それは三原の腕の見せどころでもあった。
打線は主砲の桑田武と近藤和彦以外は選手の調子、相手投手などにより使い分け、日替わりオーダーを組んだ。投手陣は西鉄時代の稲尾のようにエースをフル回転させるのではなく、先発は秋山登、鈴木隆、島田源太郎を軸にローテーションを組み、実績はあるものの前年未勝利に終わっていた権藤正利を救援に回した。
三原曰く「超二流」の選手たちを適材適所に配置し、全員野球で戦いを挑んだ結果、大洋は前年最下位から奇跡の優勝を成し遂げる。さらに大毎オリオンズとの日本シリーズも全試合1点差勝ちで4連勝し、日本一まで上り詰めたのだった。
大きな補強もなく、監督が代わっただけである以上、三原の采配が一番の勝因であることは間違いない。
翌36年、三原は「作戦統率の妙」を評価されスポーツ界で初めて菊池寛賞を受賞した。
三原は采配を芸術の域にまで高めたのだった。
3チームを優勝に導いた
西本幸雄監督の強すぎる信念
勝利への執念と厳格な指導から「闘将」と呼ばれた西本幸雄。監督通算1384勝、大毎オリオンズ、阪急ブレーブス、近鉄バファローズの3チームを、それぞれ球団史上初のリーグ優勝へと導いた。
「闘将・西本」を象徴する出来事が、昭和35年に起きている。「バカヤロー事件」だ。
西本は監督就任1年目にして大毎を優勝へと導くも、日本シリーズでは大洋に敗れた。するとシリーズの敗因とされたスクイズ失敗をめぐり、大毎オーナーの永田雅一が電話でクレームを入れる事態に。現場に口を出すことで有名な永田は、「バカヤロー」と西本に激高。
これに対し、西本は毅然と発言の取り消しを求めた結果、「優勝監督解任」という異例の決定が下されたのだった。
阪急時代には、「信任投票事件」を起こしている。5位で終わった就任4年目の41年オフ、西本は無記名で選手に監督の信任を問う異例の行動に出た。