1974年10月14日。長嶋茂雄の現役最後の試合が行われていたその日、名古屋では中日の優勝パレードが繰り広げられていた。20年ぶりの優勝を、長嶋引退のニュースでかき消された中日の意趣返しとも言われているが、その真相とははたして?※本稿は、別冊宝島社編集部 編『永久保存版 嗚呼、青春の昭和プロ野球 心震えた名場面とその舞台裏』(宝島社)のうち、広尾晃の執筆部分を抜粋したものです。
長嶋茂雄よりいい選手はいるが
長嶋ほどのスターはいない

長嶋茂雄は「国民的英雄」と呼ばれた唯一のプロ野球選手である。
しかし、なぜ通算400勝の金田正一(国鉄→巨人)、通算868本塁打の王貞治(巨人)、通算1065盗塁の福本豊(阪急)ではなく、長嶋だったのか――。
「打ってほしいときに打ってくれる」「チャンスに勝負強かった」「華のあるプレー」という抽象的な印象で語られることが多いが、現実的な理由を分析してみた。
昭和9年、ベーブ・ルースをはじめとする米大リーグ選抜軍を迎え撃つために全日本代表が結成された。
このなかには三原脩、水原茂、中島治康、沢村栄治、スタルヒンらがいた。このメンバーを中心に巨人軍が結成され、昭和12年から日本職業野球連盟(現在のプロ野球)のリーグ戦に参加する。
いわば精鋭を集めた「侍JAPAN」のようなものだ。だから、その系譜である読売ジャイアンツが強くて人気があるのは、実はある意味当然なのである。
昭和18~19年あたりになると戦争で野球どころではなかった。しかし戦後、野球が再開されると「赤バット」の川上哲治(巨人)、「青バット」の大下弘(セネタースほか)、「物干し竿バット」の藤村富美男(阪神)が人気を呼ぶ。