結果は40数人中、不信任7票、白票4票、西本は信任しなかった11票を重く受け止め、一度は辞意を表明する。しかし、西本の手腕を買っていた阪急の小林米三オーナーが強く慰留。「そこまで信頼されているのなら」と、西本は再びチームを率いる決意を固める。
日本一には届かなかったが
残したものはあまりに大きい
万年Bクラス候補で「灰色の球団」と呼ばれた阪急では、キャッチボールなどの基本からチーム改革に着手。時に鉄拳制裁も辞さない厳しい指導で、土台を築いた。
「信任投票事件」の翌年には球団初のリーグ優勝を達成。山田久志、福本豊、加藤英司らスター選手を育て、常勝軍団の礎を築いた。
近鉄では、パ・リーグのお荷物球団と揶揄されるなかでの監督就任だった。選手一人ひとりと格闘しながら意識改革を進め、「ニシさんのゲンコツは熱い」と慕われた。就任6年目の昭和54年、悲願の球団初優勝を達成する。
西本は監督として8度のリーグ優勝をしながら、日本一が一度もない。とくに54年、広島との日本シリーズ第7戦では、1点ビハインドの最終回、1死満塁の絶好機にスクイズを仕掛けるも失敗し敗北。
「江夏の21球」として語り継がれる名場面は、西本の側から見れば自身初の日本一が最も近づいた瞬間でもあった。
しかし西本は「悲運の闘将」と呼ばれることを好まず、こう語っている。
「選手のおかげで8度もリーグ優勝ができたんや。こんな幸せ者おらんやろ」
監督としての最終戦となった56年10月2日の近鉄対阪急では、試合後に両チームの選手たちから胴上げされた。誠実さと信念を貫き、選手と真摯に向き合った熱血漢。その情熱と矜持は、今もなお多くの野球ファンの心に刻まれている。
昭和にしては革新的すぎた
広岡達朗の「管理野球」
1970年代後半から80年代にかけて、広岡達朗はヤクルトスワローズと西武ライオンズの監督を務め、7シーズンで4度のリーグ優勝、3度の日本一を成し遂げた。
特筆すべきは、いずれもBクラス常連のチームを短期間で日本一へと導いた点にある。
広岡の指導法は「管理野球」と呼ばれ、選手の私生活にまで及ぶ厳格な管理が特徴だった。広岡管理野球の代名詞とされたのが、その食事管理法だろう。