たとえば私がバンジョーの稽古をしていて批判されたとする。批判した相手は、月謝をとって私にバンジョーを教えている熟練した音楽家だ。この場合、私は彼に批判してもらうために月謝を払っているのだから、批判されて傷つくというのは筋違いだ。真剣にバンジョーがうまく弾けるようになりたいのであれば、批判されたことに感謝すべきである。
だが相手が尊敬できない場合はどうだろう。尊敬できないどころか、まったく卑しむべき人間だと思っている相手から侮辱されたとする。
この場合は、彼の侮辱で傷つくよりもむしろ安堵すべきなのだ。その人物が私のしていることを認めていないのなら、間違いなく私が正しいのである。
逆にこの卑しむべき人間が、私のしていることを認めたとしたら困ったことになる。こういう相手の侮辱に対して何か言うとしたら、最も適切なコメントはこうだろう。「君が私のことをそんなふうに思っているのを知って、ほっとしたよ!」。
セネカは言う。
侮辱してきた相手について考えるとき、しばしば私たちはその人物が大きくなりすぎた子どものようだと感じる。母親が幼い子どもの行動で心を乱されるというのは愚かしい話だ。同じように子どもっぽいおとながしたことで心を乱されるのはまことに愚かしい。
ときには、侮辱する人自身が深い傷を負った人生を送っていることがある。マルクス・アウレリウス(編集部注/第16代ローマ皇帝。ストア哲学などの学識に長け良く国を治めたと評価されている)によれば、そんな人間は怒りではなく憐れみに値するのだ。
侮辱にはユーモアで
返していた偉人たち
侮辱の針を取り除くのに成功したとしても、相手にどう反応するかという問題がまだ残っている。
たいていの人は、一番良いのは侮辱の仕返しだと考える。それもできれば巧妙なものだ。だがストイックはそうは考えない。
では仕返しが駄目なら、侮辱に対して他にどんな反応があるというのか?ひとつすてきな方法があるとストイックは言う。ユーモアで応える方法だ。